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※以前「スピリチュアル・ヒーラー養成塾」のコラムに書いた内容に少し解説を加えます。



昭和の大宗教家・出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)にかかった艮の金神(ウシトラノコンジン)(=国常立尊〔くにとこたちのみこと〕)が告げたもの。
真の日本魂(やまとだましい)はかくあるべしという身魂が震える神勅である。

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出口王仁三郎(出典:wikipedia




日本魂とは/出口王仁三郎「伊都能売神諭」より



日本魂と申すものは、天地の先祖の神の精神と合わした心であるぞよ。
至善至愛(ぜん)の大精神にして、何事にも心を配り行き届き、兇事に逢うとも大山の如く、ビクとも致さず、物質欲を断ちて精神は最も安静な心であるぞよ。
天を相手とし、凡人と争わず、天地万有山野海川を我の所有となし、春夏秋冬も昼も夜も暗も雨も風も雷も霜も雪も我が言霊の自由に為し得る魂であるぞよ。

如何なる災禍に逢うも艱苦を嘗めるも意に介せず、幸運に向かうも油断せず、生死一如にして昼夜の往来する如く、世事一切を惟神(かんながら)の大道に任せ、好みもなく恨みも為さず、義を重んじて心裏常に安静なる魂が日本魂であるぞよ。

常に心中長閑(のどか)にして、川水の流るる如く、末に至る程深くなりつつ自然に四海に達し、我意を起こさず、才智を頼らず、天の時に応じて神意に随って天下公共の為に活動し、万難を弛まず屈せず、無事にして善を行うを日本魂と申すぞよ。

奇魂(くしみたま)能く活動する時は大人の行い備わり、真の智者となり、物を以って物を見極め、自己に等からん事を欲せずして身魂共に平静なり。
小人なるものは自己を本として物を見、自己に等からん事を欲するが故に、常に心中静かならず、之を体主霊従(あく)の精神と申すぞよ。今の世の中一般の心は皆この心であるぞよ。

誠の日本魂のある人民は、其の意志(こころ)平素(つね)に内にのみ向い、自己(おのれ)の独り知る所を慎み、自己の力量才覚を人に知られん事を求めず、天地神明の道に従い交わり、神の代表となりて善言美辞を用い、光風霽月(せいげつ)の如き人格を具えて自然に世に光輝を放つ身魂であるぞよ。

心神常に空虚にして、一転の私心無ければ、常永(とこしえ)に胸中に祖国あり、何事も優れ勝りたる行動を好み、善者を喜びて友となし、劣り汚れたるを憐れみ且つ恵む、富貴を欲せず羨まず、貧賤を厭わず侮らず、只々天下の為に至善を尽くす事のみに焦心す、是の至心至情は日本魂の発動であるぞよ。

天下修斎の大神業に参加するとも、決して慌てず騒がず、身魂常に洋々として大海の如く、天の空(むな)しうして鳥の飛ぶに任すが如く、海の広くして魚の踊るに従うが如き不動の神を常に養う、是れが神政成就の神業に奉仕する身魂の行動でなければならぬのであるぞよ。

凡人の見て善事と為すにても神の法に照らして悪しき事は是れを為さず、凡人の見て悪しきと為す事にても神の誠の道に照らして善き事は勇みて之を遂行すべし。
天意に従い大業を為さんとするものは、一疋の虫と雖も妄り(みだり)に之を傷害せず、至仁至愛にして万有を保護し、世の乱に乗じて望を興さぬ至粋至純の精神を保つ、是れが誠の日本魂であるぞよ。




出典:「出口王仁三郎 三千世界大改造の真相」(中矢伸一)KKベストセラーズ




艮の金神(=国常立尊)が出口王仁三郎に懸かって述べた神勅で、すなわちこれが神の言葉です。

少々読みづらいところもありますので、大事と思われる点をわかりやすく解釈してみます。



 日本魂(やまとだましい)というものは、自己の肉体内だけで完結するものではなく祖霊や神とつながっているものである。

 善を尽くし愛に生きる大精神である。

 どんなことにも心を配り行き届く様にする。すなわち思いやりが深い。

 どのような災難にあっても大山のごとくビクともしない強い心である。

 物質欲がなく、心はいつも穏やかで落ち着いている。

 つまらない人と争ったり関わったりせず、常に天(神)を行動の尺度にしている。

 ついている時・幸せな時であっても浮かれたりせず穏やかな心を維持する。

 生きるも死ぬも同じこと、世の中の一切のことを神の御心に任せ切る。

 好き嫌いもせず、人を恨んだりせず、義を重んじ、常に心中はのどかで穏やかである。

 我を起こさず、自分の才智に溺れず、神の意思に従って天下公共のために働く。

 物の価値を見極め、また自分の身の丈に合ったものを望み、その結果心はいつも平静である。

 しかし、今の世の中はほとんどが自己中心的で身の丈以上の物を欲する体主霊従(あく)の精神状態である。

 自分の才覚を売り出して有名になろうとは思わない。しかし、神の御心に従う生き方・自然と調和する生き方をし、善き言葉・美しい言葉のみを用いて神の手足となって活動する内、名誉欲を出さずとも自然とその人格は光を放ち世にあまねく影響を与える様になる。

 心は無私の状態であるが常に愛国心を持っている。

 善き人と積極的に交友を持つ。しかし、劣っている人や恵まれない人にも慈悲の心で施しを与える。

 金銭欲もなく金持ちを羨むこともない。貧乏も嫌がらない。只々世界や日本を良くするために善いことをし尽くすことばかりを考えている。

 普通の人が良いことと思ってやっていることであっても、神の法の下に照らして再考して悪いと判断されるものはこれを実行しない。

 逆のこともしかりで、普通の人が悪いと思っていることであっても、神の法の下で考慮し自分が良いと判断することは果敢に実行する。

 天意(神の意思)に従って大きな事を成し遂げようとする人は、たとえ一匹の虫といえどもみだりに傷つけたり殺したりしない。優しさや愛に溢れすべてのものを包み込む。

 世の中が乱れている場合でもその混乱に乗じて野望を表すことのない純粋な心を持っている。





2015_04_24


富士山


今日は出口王仁三郎の「月鏡」(昭和5年発行)より「日本人目覚めよ」についてご紹介します。

出口王仁三郎は宗教大本を創始した人物の一人です。
日本宗教史上、とても重要な人物でありますが、すっかり忘れ去られ今では知る人ぞ知る状態になっています。
非常にスケールが大きい人物で、簡単には語り尽くせないものがあります。

大本という宗教団体を知っている人は多くはないと思いますが、現代の宗教の多くはその源流が大本であります。

「日月神示」を降ろした岡本天明も大本の元信者で、出口王仁三郎とは親しい間柄でした。


また合気道も大本と関係があります。
合気道を創始した植芝盛平は大本での武道修行によって神通力を得ました。
武道の分野でも合気道から分派した多くの武道団体があります。

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植芝盛平(出典:wikipedia)

それを考えると表には出ていなくても、大本と出口王仁三郎の影響は日本人の生活に脈々と浸透し続いているといえます。
(ちなみに私は大本の信者ではありません。)


さて、その「月鏡」の「日本人目覚めよ」にはこう書かれています。
(読みやすくするために一部現代の仮名遣いに直しています)




オイツケンがどう言った、マルクスがこう言ったのと、個々の人々の抱いた思想について、深くこれを究める事は専門家の仕事であって、すべての人間が専門家同様の研究を重ねんとするのは無理である。

普通の吾々等は、各学者の学説を通観しただけで常識的の頭を作らねばならぬ、少なくとも一瞥(いちべつ)しただけでその取捨選択を誤らないだけの常識を持っていなければならぬ。

政治の経過においても政治的歴史から見ても、大抵わかることで西洋諸国には古来幾回かの人種の大移動を繰り返して来た。
前の人種を後の人種が全滅する、優等人種が出てこれに代わり、転滅戦に次ぐに全滅戦をもって今日に至ったので、残虐の継続が今日を築き上げたものとみられる。
そして西洋思想は実にここから生まれている。


地上の草木を知ろうとするなら、まずもってその土地を充分に調べてみなくてはならぬ。
しかるに日本人にして、日本を知らないものがある。
日本に生まれ、日本に育ちながら、日本の歴史、日本人の習慣性等については全くこれを知ろうとさえ努めるもののなき現代である。

日本人の言葉といえば浅薄なもの、西洋人のいう事なれば、必ずそれが真理であるように、早呑み込みするようになってしまっては始末に困る次第である。

日本の刀剣についてさえドイツに聞かなければわからぬなどは沙汰の限りである。

特に今日の青い連中の読物はすべて西洋のもの、語る所もまた西洋のもので、日本は昨日まで未開野蛮国であったのだ、西洋のおかげで文明国になったのだと思っている。
しかもこれらの連中は自他ともに知識階級と称して怪しまない。
こんな事では日本の神国も前途はなはだ寒心の至りである。


まずこの迷信を打破することに努め、日本人には日本固有の真の文明を知悉(ちしつ)せしむる事が刻下の急務である。





出典 : 『月鏡』(出口王仁三郎)



この文章は昭和3年~5年の間に書かれたものですが、内容的には現代の方がより当てはまると思います。
80年以上経っている訳ですが、事態はもっと深刻になっていると感じます。

日本人でありながら日本を知らないというのは自分自身が何者であるかわからないということであると言っても過言ではありません。
それは民族のアイデンティティの喪失であり、国家の人口は多くても舵取りもなされていない流浪の民の集団です。

民衆を導くはずの政治家であっても日本について知らない人が多い様です。

日本語もろくに話せないのに幼年期から英語を習っている幼児が多いと聞きます。
日本語には日本人独自の脳、精神を開発する鍵となる言霊が含まれているため、その時期こそ日本語に触れさせる時間を増やすべきです。
確か故・船井幸雄さんも幼児期から英語を学ばない方が良いということをかつて言っていた記憶があります。

医療についてもしかり、西洋医学だけが正当な医療であると信じて疑わない人ばかりです。
確かに西洋医学にも良い点はたくさんあります。
しかし、人間を魂・気・肉体の混成として身体全体を診てきた東洋医学の叡智は西洋医学以上に深く、また価値があり、人類の健康に寄与するものと私は思います。

病院に行けば治らない人ばかりで溢れ返っています。
西洋医学は目覚ましい発展を遂げてきているのに、病人の数は年々増えています。
病気と闘うというのが西洋医学の思想であり、薬を飲んで症状を抑え込んでしまえばそれで治ったといいます・・・それは正しいのでしょうか?
病気は戦う対象ではなく、癒し浄化していくものと私は思います。

賢い人は既に気付いて行動しています。
多くの人が信じていること、考えていることがすなわち正しいことでも真実でもありません。
自分の頭で考えて、常識やマスコミにとらわれず踊らされず、自分に役立つ情報や知識を取捨選択することです。
自分の身は自分で守らねばなりません。


日本の歴史について学び、日本のこと、日本人のことを考えていくことは信条や価値観を形成する上でとても重要と思います。
ここが生き方のベースとなるのです。

気功のブログのつもりでしたが、なぜか脱線しっぱなしです。
学校教育の歴史の勉強というと用語や年号の暗記ばかりで無味単調なものでしたが、その様な学びとは違います。

また折に触れて書いていきますので、読んで頂ければ感じて頂けるものもあるかと思います。





2015_04_19


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今日は天皇・皇后両陛下が戦没者慰霊のためパラオをご訪問されています。
パラオはペリリュー島やアンガウル島などの大東亜戦争激戦地があり、多くの日本兵が玉砕し亡くなった地です。
戦後70年のこの年に天皇陛下がパラオに慰霊に行かれるのは、心打たれます。
陛下は心臓が悪く飛行機は身体への負担が大きいはずなのに・・・
天皇陛下の慰霊の旅から先の戦争を風化させてはならないという強いお気持ちが伝わってきます。

パラオはかつて日本の委任統治下にあり、パラオの国民はその時代をよき時代ととても懐かしんでいます。
パラオは世界一の親日国とも言われます。
また、とても美しい島嶼(とうしょ)から成り、マリンスポーツも盛んです。
私もいつか行ってみたいと思っています。

パラオ政府観光局 

「パラオはなぜ世界一の親日国なのか」(井上和彦)



画像を見ると、こんな天国の様な美しい地で、日米が熾烈な殺し合いをしていたのだなぁと、何とも言えない気持ちになります。
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以下は天皇陛下が羽田空港にて発たれる前に語ったお言葉です。




本年は戦後七十年に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。

 私どもはこの節目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和国を訪問いたします。

 パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和十年頃には、島民の数より多い五万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。

 終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約一万人、米軍は約千七百人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。

 この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。

 この訪問に際し、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり、パラオ国大統領御夫妻と共に、ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。

 終わりに、この訪問の実現に向け、関係者の尽力を得たことに対し、深く感謝の意を表します。




陛下が慰霊にご訪問されることで、多くの人の意識が変わってほしいと思います。
また、未だ彷徨っている英霊達が成仏し早く安住の地に辿り着いてほしいと願います。

私は昨年から度々先の戦争に関係する記事を書いていますが、別に軍事オタクでも、偏狭な民族主義者でも軍国主義者でもありません。

平和を心より希求しており、それには過去の正しい歴史認識が絶対に必要と思っているからです。

こちらも是非ご一読下さい。

「ねずさんのひとりごと」
パラオとペリリュー島の戦いのお話 


※戦艦大和の続きの記事はまた後日書きます。



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出典 matome.naver.jp

2015年3月2日に戦艦武蔵がフィリピンのシブヤン海1000メートルの深海で沈没しているところをマイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏によって発見されました。
戦艦武蔵は沈没地点を調査しても見つからず、完全に沈まない状態で海中を漂っているのではないかという噂までありました。
戦後70年々の時を経て発見され、元乗組員は「運命的なものを感じる」と語ったとのことです。

戦艦武蔵の同型艦が戦艦大和です。
戦艦大和は70年前の今日、1945年4月7日に沖縄、坊ノ岬沖海戦で沈没しました。

この記事を読まれる前に前回寄稿した「現代日本人へのメッセージ①『人、虎孔裡 (じん、ここうり) に墜つ』」を読んでみて下さい。
その方が、この記事に深みが出ることでしょう。

戦艦大和は日本が国家の威信をかけて建造した戦艦で当時世界最強と言われていました。
その名は現代に至るまで有名で歴史に疎い人でも戦艦大和の名前は知っていると思います。

日本がいかに大和に力を注いで来たかは建造費からも一目瞭然です。
大和の建造費は当時の国家予算の3%に相当しました。
たった1艦で国家予算の3%とは・・・それにかける意気込みたるや凄いものです。
建造期間は7年、延べ169万人もの人が動員されたまさに国家プロジェクトと言っても過言ではありません。

当時の仮想敵国はアメリカであり、物量共に日本を上回る軍事力を持っており、それに対し日本は攻撃力・防御力共に史上最強となる質で対抗しようと考えました。

大和の概要は次の通りです。

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(出典 wikipedia

・全長263メートル(東京ドームの直径244m)
・高さ54メートル(13階建てビル相当)
・速力27ノット(時速50km)
・出力15万3553馬力(ジェット旅客機は約10万馬力)
・基準排水量64000t(それまでに造られた超弩級戦艦でも4万tクラス、その1.5倍もあった)

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人が小さく見えます (出典 matomenaver.jp

戦艦大和の前方甲板に装備された46cm主砲は戦艦大和の象徴とも言えるものです。
46㎝主砲は当時史上最大の大型径砲で主砲塔の重量だけで2700tもあり、それだけで駆逐艦の基準排水量に匹敵する程のものでした。
その主砲から繰り出される砲弾46cm砲弾は普通乗用車一台分もの重さがありましたが、それでも主砲の射程距離は42kmにも及びました。(東京タワーから鎌倉に届く位の距離!)
30㎞先にある40cmの装甲を貫通させる程の圧倒的パワーを誇りました。
この主砲は現代に至るまで世界最大の艦戴砲です。

防御力についていえば喫水線部で41cmの装甲を備え、当時としては高度な対空防御も装備されていました。
まさに日本の英知を結集した空前絶後の戦艦だったのです。


その大和ですが、実戦では幾つかの戦場に派遣されましたが、建造された背景とは裏腹に華々しい活躍はありませんでした。
なぜなら、大和が完成した頃には海戦の方法が戦艦同士の艦隊決戦ではなく、空母と戦闘機による空中戦に変化していたためです。

日本は1941年12月のマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の不沈艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスを陸上攻撃機85機であっという間に撃沈し、イギリスに大きな衝撃を与えたことがありました。
プリンス・オブ・ウェールズは皇太子の名を冠した戦艦で、イギリスの威信をかけて建造した戦艦です。
当時世界最強と言われていたこの戦艦が日本の航空機の攻撃によって沈没したため、チャーチルにして「あの戦争においてあれ程の衝撃を受けたことがない」と言わしめたのです。
それまでは作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできないというのが常識でしたが、それを日本が覆したのです。

皮肉にも日本が艦隊同士の海戦という手法にピリオドを打たせたのにも関わらず、日本は大和という巨大戦艦を使わざるを得なかった訳です。

その様な背景があったため大和は有効に使われることなく時は経過し、活躍しないで浮かんでいたため「大和ホテル」と揶揄(やゆ)されたりしました。

しかし、大東亜戦争の戦況は次第に悪化の一途を辿り、日本連合艦隊は海戦での敗北を重ねたため制海権・制空権はアメリカの手に渡ってゆきました。
そして1945年4月1日にアメリカ軍は沖縄に上陸して来ました。
本来アメリカは沖縄上陸を3月1日に予定していましたが、硫黄島の栗林兵団の頑強な抵抗によって計画は一ヶ月遅延となっていました。
硫黄島の激戦の様子はクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」に詳しいです。



本格的な沖縄侵攻を確認した日本連合艦隊は3月26日に天一号作戦を発動しました。
それは陸海軍全兵力を挙げての特攻であり、その魁としてこれまで前線に出ることがなかった大和にも遂に出撃命令が降りたのでした。

4月1日から6月22日まで82日間に渡って繰り広げられた沖縄戦はイギリス首相のチャーチルが「軍事史上最も苛烈な戦い」と言った程の大激戦でした。(当事者である現代の日本人は知らない)

その口火を切ったのが大和の出撃となった菊水作戦であり、大和をはじめとした第二艦隊第一遊撃部隊(戦艦1、軽巡1、駆逐艦8)は沖縄に突入して敵艦隊を撃滅し、そのまま沖縄本土に座礁、浮き砲台として日本陸戦部隊を支援するというものでした。

しかし、この当時、制海権だけではなく制空権もなく、更にこの作戦には艦隊を護衛する日本軍機は付けられませんでした。
沖縄に向かえば途中でアメリカの戦闘機による攻撃を受けてすぐに沈没してしまうことは火を見るより明白でした。
従って、この作戦は明らかに無謀で勝ち目は全くなかったのです。
これは事実上の戦艦による特攻でありました。

この作戦の司令長官は伊藤整一(最終階級は大将)で、作戦を下命された時に反対をしたと伝わっています。
しかし、最後には承諾し大和と運命を共にしました。

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伊藤整一 (出典 wikipedia

伊藤整一は遊興好きが多い当時の海軍軍人にしては珍しく愛妻家で、残される妻に次の様な遺書を残していました。

『親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心より感謝致候 いとしき最愛のちとせ殿』

伊藤整一司令長官の息子叡(あきら)中尉は父が逝った後沖縄への神風特別攻撃隊として零戦で沖縄の海に散華しています。
家族2人を沖縄の海で亡くした伊藤整一司令長官の奥様のご心痛はいか程であったことでしょう。

さて、特攻ということを知った乗組員の様子は「wikipedia」にはこの様に書かれています。
「命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、『本作戦は特攻作戦である』と初めて伝えられた。しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、『よしやってやろう』『武蔵の仇を討とう』と逆に士気を高めたという。ただし、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していた。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。」

これまでの通常の航空機による特攻は出撃前に当然ながら分かっていますが、この時は乗った船の上で特攻、つまり帰ることはないと告げられた訳です。

しかし、乗組員の士気は盛んな状況で、3332名が沖縄の海へと出航しました。


日本の第二艦隊第一遊撃部隊に対するアメリカは新鋭空母12隻、艦戴機800機の圧倒的な戦力で迎え撃ちました。

大和は鹿児島の大隅半島の先を越えて東シナ海に入ってすぐ(4月7日11:07)にアメリカのレーダーに捉えられました。
アメリカは大和を沈めるということの意味と日本に与えるインパクトを理解していました。
そして、大和を完全に沈めるべく、簡単に日本本土に引き返せないところまでおびき出そうとしていました。
そのため、大和をレーダーで捕捉していて潜水艦からの攻撃も可能だったにも関わらず、軽傷で引き帰られてはかなわぬと攻撃を控えていたのです。

大和に襲い掛かったのは第一次・第二次攻撃合わせて328機の航空部隊でした。
その日は厚い雲に覆われており、その隙間を縫って出現するアメリカ航空機に対し対空砲火の照準を合わせるのは困難な状況でした。

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アメリカの爆撃により炎上する大和 (出典 wikipedia

アメリカの作戦は左舷に魚雷を集中させることで、魚雷を被弾し続けた大和の艦内には大量の海水が浸水しました。
大和はバランスを保つために右舷の注水区画へ海水を流入させ転覆を堪えました。
大和は耐えに耐えましたが一方的な展開でした。
多勢に無勢、大和は応戦むなしく11以上とも言われる爆弾と、20以上と言われる魚雷を受け遂に航行不能になりました。

午後2時10分頃、動けなくなった大和にアメリカの攻撃機は決定的となる魚雷を左舷に打ち込みました。
それが致命傷となり、やがて艦の傾斜が35度を越えました。
そして、総員退艦命令が出た直後、弾薬庫に誘爆が起こり巨大な火柱が昇りました。

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大爆発する大和 (出典 matomenaver.jp

大和はその爆発で艦が二つに分断され、沖縄の海に沈んでいったのでした。

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大和の爆煙 (出典 wikipedia

大和の乗組員は3332名、その内生還したのはわずか276名でした。
それが70年前の今日の出来事です。

次回は、なぜ大和が航空機の援護もなく沖縄に特攻していったのか、その意味について思うところを書きます。

最後に・・・国を守るために沖縄の海に散華した多くの英霊に謹んで感謝と、ご冥福をお祈りする次第です。



(参考文献)
「戦艦大和のしくみ」(新星出版社)




2015_04_07


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金曜日から毎月恒例の山での修行に入り今日帰ってきました。
真冬は厳寒の地も今は春の陽気で大分暖かくなっていました。
関東に戻ると却って雨で寒く感じたくらいです。

修行では、主に山中で護摩行・瞑想行を行い癒しのパワー(宇宙エネルギー)を強化します。
また、自己浄化と解毒・毒出しをし、肉体・オーラ(エネルギー場)のクリーンにします。
不浄なエネルギーや毒素を浄化すればする程、神気・癒しのエネルギーは大量に身体に入ってくるため大きく駆使できる様になります。

一ヶ月間、病気の方の気功施術を行うと相当に受け手の邪気を貰います。
毎日気功の施術が終わると瞑想をしてそれを浄化をしていますが、それでも浄化しきれないものが残ります。
毎月の山の行でこれを浄化しますが、自分の身体に入っている邪気を出していくのは大変に苦しい作業となることも多いです。

その意味でこの気功の施術という仕事は身代わり行的なところがあり、重い病の方を施術する程大変なものがあります。
対面での気功治療のみならず、遠隔気功でもそれは同じです。
時には具合が悪くなって動けなくなることもあり、こんな思いはしたくないといつも思います。
しかし、ご依頼があればやらなければなりませんので、立ち向かっていくしかありません。

以前に比べれば気功の力は大分上がっていると自覚していますが、気功の力を付ければ付ける程重篤なお客様が不思議と増えてきます。
なかなか楽に仕事をさせては貰えません。

この仕事は私のお役目と思ってやっていますが、更なる上のレベルの気功家・ヒーラーとなるためには修行でもまだまだ壁が幾つもあり、それを果敢に乗り超えていかなければなりません。


さて、今回は出口王仁三郎について少し話をしたいと思います。
戦前から戦後にかけて生きた出口王仁三郎は宗教大本を創始した人物の一人です。
出口王仁三郎は大変スケールの大きな人間で、語り尽くせない感があります。

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出口王仁三郎(出典:wikipedia


私は2000年前のイエスキリストに匹敵する人物であるとそれ位に思っていますが、大本は国に弾圧された立場であって出口王仁三郎は正当な評価を得られていません。
出口王仁三郎も自身を「私が死んで100年経たないと私の事はわからない」と言っていました。

出口王仁三郎は神によって動かされていた人物で、70~80年前に大本という宗教団体を作りました。
大本は多くの信者を獲得し、その勢力は国家として無視できない程に拡大していきました。
出口王仁三郎についてはいずれ詳しく書かなければと思うのですが、簡単にはまとめられず時間がかかるので今回はそれはしません。

大本は二度国家の弾圧を受けました。
第一次大本事件と第二次大本事件です。
第二次大本事件(1936年3月13日)では大本は完膚なきまでに叩き壊され、亀岡の神殿はダイナマイトで破壊され、信者も多く検挙され、拷問を受け多くの人が亡くなりました。

教祖の出口王仁三郎も治安維持法と不敬罪で逮捕され、激しい拷問を受けました。
その後の大阪控訴院で高野綱雄裁判長と「人、虎孔裡(こうり)に堕つ」禅問答をしています。

話は判事が予審調書をねつ造したと、出口王仁三郎が内容をその否定する部分です。

出口王仁三郎
「裁判長、私の方から一寸お訊ねしたいのです。禅宗の間答に『人、虎孔裡 (じんここうり) に墜つ』というて、一人の人間が虎の棲んでいる穴へ誤って落ち込んだと仮定して、その時落ち込んだ人はどうしたらよいのかという問答があります。裁判長、あなたはこれをどうお考えになりますか。」

裁判長
「私は法律家で宗教家ではないから、そんなことは分らぬ。お前は宗教家だから分かっているだろうが、それはどういうことかね。」

出口王仁三郎
「人間より虎の方の力が強いから、逃げようと後を見せると、直ぐ跳びかかって来て噛み殺される。歯向かって行ったら喰えて振られたらモウそれきりです。ジッとしていても、そのうち虎が腹が減って来ると喰い殺されてしまう。どっちにしても助からないのです。」

裁判長
「それはそうだろうな。」

出口王仁三郎
「ところが、一つだけ生きる途(みち)があります。それは何かというと、喰われてはだめだ、こちらから喰わしてやらねばなりません。喰われたら、後に何も残らんが、自分の方から喰わしてやれば後に愛と誇りとが残る。その愛と誇りを残すのが、宗教家としての生きる道だ、というのがこの問題の狙いなのです。」


それを聞いて裁判長は「う~ん」と唸ってしまったという記録が残されています。
ここでは、虎のことを大本を弾圧した国家に例え、虎の穴に落ちた人を自分自身と大本に例えているのです。

この話はまた別の話につながります。
近日中に寄稿しますので覚えておいて下さい。



2015_04_05

桜花

category: 歴史・大和魂  

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暑さ寒さも彼岸までと言います。
お彼岸を向かえ、これからいよいよ春本番というところでしょう。
関東では先週も20℃近くまで気温が上昇する日が数日あり穏やかな春の日和が過ごしやすかったです。

今日のニュースでは鹿児島で桜が咲いたと報道されていました。
これから関東でも桜の開花を迎えます。

今日は同じ桜の花でも違う桜の話をしたいと思います。
それは「桜花」という戦闘機の話です。

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一式陸攻の下部に吊られている桜花
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29

大東亜戦争の末期の1945年、桜花という新たな航空兵器が誕生しました。
桜花は神風特別攻撃隊の一人乗り戦闘用飛行機であり、ミサイルを積んで突撃するためだけに作られた飛行機です。
飛行機というよりミサイルに羽と人が乗るコックピットがある木製滑降機、もしくは人間ミサイルという表現の方が適切かもしれません。
全長6メートル、翼幅5メートル、重量2.1t、先端部には1200㎏の爆弾が積まれています。

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コックピットより前に積まれている1200㎏爆弾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1_%28%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%29

1200㎏の爆弾というと、当時通常の爆撃機が投下する爆弾が50㎏、特攻機が250㎏の爆弾を積んでいましたので、いかに強大な威力の爆弾かが分かります。

しかし、桜花はわずかな固形燃料しか積載しておらず、そのため自力で離陸することができませんでした。
そのため一式陸攻(飛行機の名前)の下部に吊られて敵の艦隊近くの空まで運搬し、高度6000メートルの空から急降下突撃をする方法を採りました。
飛行距離は30kmしか飛べません・・・というよりほとんど降下するだけです。
万一距離が届かない場合のために末尾部には3本のロケットが装着されており、それが9秒間分だけ噴射することができました。(たった9秒です!)

ミサイルに短い翼が付いている形状なので、零戦の様に器用に操縦することはできません。
ほとんど直線的に突っ込むだけでしたが、その最高時速は時速900kmにも達し如何なる敵も桜花を補足し撃墜することはできないとされていました。

アメリカではこの桜花を「BAKA」(馬鹿)というコードで呼んでいました。
特攻に恐れを抱きつつも狂気の沙汰としか思えなかったのかもしれません。

今日、3月21日はこの桜花が始めて実戦に投入され沖縄に侵攻するアメリカ軍に攻撃をしかけた日であります。

南方の諸島の制海権はアメリカに局地戦での敗戦を重ね奪われてしまい、既に沖縄本島目前まで迫っていました。
フィリピンでの戦闘の時から始まった連合艦隊の特攻は、戦闘機の搭乗員が生還の望むことができない死への片道切符でしたが、この戦術は予想外の成果を挙げていました。

日本軍は物資も窮しており、特攻は身の振り構わずとった最終手段でありました。
アメリカの航空母艦の甲板に突撃し、撃沈または大破させれば日本への攻撃を遅らせることができたのです。

実際に特攻攻撃に参加した兵士は20才~33才までの若者でした。
まだまだ年端もゆかない若者で、生きていたいという気持ちは強かったことでしょう。
そんな彼らの内面の気持ちは今に生きる私たちには到底想像もつきません。
その時代、その状況におかれている者でしか分からない特殊な心理状態にあったものと思います。
彼らは若くして命を捨てることになる自分の運命に深く苦悩しましたが、それを表に出すことなく士気は非常に旺盛でした。
必ずや敵空母を撃沈すると決意をして多くの若鷲が南方の海へと飛び立ちました。

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特攻待機中の若い搭乗員、この様な青年達が南海に散華した
背後には一式陸攻と懸吊された桜花が見える
http://s-yoshimoto.sakura.ne.jp/book/ISBN978-4-89295-911-0.html


作戦が成功し自分が死ぬことで日本への攻撃の手を遅らせることができるだけではなく、敵の士気を消沈させる効果もあります。
特攻兵は自分の命を捨てる恐怖よりも、日本を、天皇陛下を、両親・家族を、恋人を守りたいという気持ちが優っていたのでした。
アメリカが本土に上陸すれば、日本は蹂躙され婦女は辱めを受けると信じられていました。
それが戦争というものです。
実際、沖縄本島では民間人10万人が戦闘の犠牲になっています。

そうならないためにも特攻兵は自分達が御国の楯にならなければならないという揺るがない気持ちがありました。
それは至高至純の愛の形と私は思います。
私たち日本人の近い先祖はこの様な尊い境地にいたのです。
日本人はそれを誇りに思い、自身の血に流れる力を自覚し、明日からの生きる力につなげていくべきと思います。


桜花の攻撃力は大きなものでありました。
ハーバード大学のモリソン教授はその著書でこう記しています。

「(駆逐艦エイベルに)500ノット(時速926km)で『バカ』がやってきた。『バカ』は前部煙突下の左舷に突入し、第一ボイラー室に貫通し爆発した。艦の中央部セクションは破断し、艦主部と艦尾部は分離した。そして『エイベル』は急速に沈没し、5分後には残骸と生存者の他海上に何も残らなかった。」

桜花が命中するとこの様に強大な破壊力がありました。
アメリカのユージン・バレンシア海軍中尉は「その破壊力は、一般のカミカゼと比べて、比較にならない程大きく、それが効果的に使用された場合、米海軍に与えるであろう大きな損害は、ちょっと想像もできない位だった。」と桜花について述懐しています。

命中しない場合でも、周囲もろとも吹き飛ばす爆発を起こし、例えば掃海駆逐艦ジェファーズの場合、桜花が右舷50mの距離に落下し爆発を起こしたのですが、その衝撃で甲板が破損し補修基地に退却しなければならなくなりました。
50m離れていてもそれだけの衝撃があったのです。

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米空母エセックスに特攻機が命中したところ
http://s-yoshimoto.sakura.ne.jp/book/ISBN978-4-89295-911-0.html

しかし、この桜花での攻撃には大きな問題がありました。
先述した様に桜花は一式陸攻という大型飛行機の下に吊り下げて戦地まで運ばなければなりません。
ただでさえ一式陸攻は重く速力がない、いわば鈍牛の様な航空機でしたので更にそれに2tもの桜花を吊り下げていればいかに遅く身動きが取れないか想像がつきます。
そのため、戦地に到着する前にアメリカのレーダーで補足され敵機に撃墜されることが多かったのです。

初めて桜花の攻撃を指揮した721飛行隊長の野中五郎少佐は航空戦の経験が豊富でしたが、この作戦がいかに困難であったか立案段階から分かっていたそうです。
べらんめぇ調の口調で兵士からも人望が厚かった野中五郎少佐も昭和20年3月21日にアメリカの戦闘機グラマンに撃墜されました。
その様子はYoutubeにもアップされていています。
グラマンに後尾を付かれ一式陸攻が必死に逃げようとしている様子が分かります。
最後は右の翼が射撃によって折られ下方に墜落していきました。


野中五郎少佐率いる第721航空隊(神雷部隊)

自分の命を祖国のために特攻で捧げようと決意を固めた兵士達が戦地に向かう途中で撃墜されて自分の本来の死に場所を得られないその無念、悔しさはいかほどであったか察するに余りあります。

急降下突撃という特殊な戦法であったため、その訓練もまさに命がけでした。
訓練では高度3000mまで上昇したところから切り離され、無事に着陸しなければなりません。
ブレーキもなく時速200kmの高速で着陸するため、その訓練で命を落した兵士や一般人を巻き込んでしまった事故などもありました。
その特殊性から訓練は1回限りで、その訓練で無事着地成功した者は次は本番を迎えることになったのでした。

実際の戦闘では6000mの高所で、母機である一式陸攻の床の搭乗口を空け、下に吊り下げられている桜花に乗り込むのです。
桜花の風防を2・3回蹴っ飛ばし、乗り込んでも落ちないことを確認した上で強風の中で風防を開け上から乗り込みます。
桜花を吊り下げている懸吊機は自動で外れるものではなく、何かで破裂させて桜花を母機から切り離していた様です。

そうすると、桜花は重力で300m位自然落下します。
地面に吸い込まれる様にして落下している機内で搭乗員は内臓が浮き出しそうになりながらその状況の中で操縦を開始するという離れ技が必要でした。

6000mの飛行中の航空機から別の機に乗り移るなんていうのはハリウッド映画のスタントマン並みの胆力と運動神経が必要でしょう。

昭和20年3月21日から6月22日までに桜花の出撃は10回ありました。
桜花は75機、それを運搬する一式陸攻は78機、合計153機、その内帰還しなかったのは桜花56機、一式陸攻52機、合計108機でした。
戦死した搭乗員数は桜花隊が56人、陸攻隊が372人でした。

それに対して成果は文献によりまちまちで定かではありませんが、犠牲に見合う程の成果はほとんどなかったと言って良いようです。
それは実際に敵艦近くまで辿り着けなかったという理由が大きかったためです。

桜花での攻撃が開始された3月21日の5日後にアメリカは沖縄本島に上陸しました。
日本軍はそこから怒涛の如く特攻隊による攻撃を行い、アメリカ軍を震撼させました。
その様子はまた機会があればお伝えするかもしれません。

私はこうして近い先祖が戦ったことを風化させてはいけないという思いでこの記事を書いています。
今、社会では集団的自衛権の話が持ち上がっていますが、私は戦争を賛美している訳ではありません。
むしろ、一般の方々より平和を希求する思いは強いのではないかと思っていますし、日々平和を祈り続けています。

特攻で亡くなった兵士は日本を守りたい、日本を良い国にしたいという思いが強かったのです。
特攻の英霊達は「俺は死ぬけど、後は頼んだぞ。」という思いを抱き突撃していったはずです。

桜花での訓練を経験しながら、終戦を迎え出番がなかった松林重雄さん(90歳)はこう語っています。

「やっぱり、死んだ人に申し訳ない。うしろめたいですよ。今の日本を見ていると、特にそう思う。このざまは何だ、こんなはずじゃなかった、と。」

私も松林さんのお気持ちは少しは分かる様な気がします。
松林さんの様な生き証人ももうすぐ居なくなってしまう・・・今の日本に必要なのにとても残念なことです。

特攻で亡くなる死に方をよく「散華した」と言います。
桜の花の様に儚く(はかなく)南の海に散っていったからです。
そうした多くの若者達の献身的犠牲が礎になって現代の平和が存続していることを忘れてはならないと思います。


〔参考文献〕

「世界が語る神風特別攻撃隊」(吉本貞昭/ハート出版)


「太平洋戦争 最後の証言」(門田隆将/小学館)




2015_03_22


私たちがアイデンティティを正しく持つ上で、日本という国がどのような国であるかを正しく認識することは極めて重要です。
それには特に正しい歴史認識が欠かせません。

現代の日本人の姿を見ると、私はどうにも本来の日本人からは遠くかけ離れた状態になっていると思えてしまいます。
それは一つには正しい歴史認識・歴史教育がされていないからでありましょう。

通常私たちは教育やマスコミを通して歴史を学びますが、それが正確な歴史観であるかというと私は日本人を間違った方向に導くべく歪められたものであると考えています。

特に近代史と先史は事実とは到底思えないお仕着せの歴史になっています。
先史とは縄文時代以前の時代、超古代史であり、常識的な歴史観では日本には縄文時代は高度な文明はなく、腰に毛皮を巻いて石器で狩猟生活をしている原始的なイメージです。

一方、近代史では先の大東亜戦争の認識が根本的に間違っており、多くの日本人はアジアに植民地支配のための侵略戦争をしたと捉えています。
ひどいところでは、アメリカと戦争をしたことを知らない若者も増えているといいます。

この前もこの様なことがありました。
小学校の教育では大東亜戦争をどう教えているのかと思い、知人の6年生の子に「どうして日本は戦争をしたのだと思う?」と聞いてみました。
すると、「え~、それは日露戦争で日本は勝って調子に乗って侵略したので、やられたんだよ。」と答えました。
「やはりそう来たか・・・」と思う反面悲しくなりました。
その子は読む本はおよそ漫画くらいと聞いていますから、その答えの元となる情報は学校教育にあるといっても間違いではないでしょう。

日本が大東亜戦争で戦争を決断したのは、アメリカを中心とするABCD対日包囲陣(米英中蘭)による経済制裁で進退窮まったからであり、戦争を望んでいたのはアメリカで、アメリカの戦略によって日本は戦争に向かわざるを得ない状況になったからです。

先に戦争をしかけたのは、日本がアメリカ領ハワイ諸島の真珠湾を奇襲攻撃したからだろうと思われるかも知れませんが、アメリカという国は歴史的にもいつも戦争を欲しており、しかも相手が手を挙げざるを得ないところまで追い込み最初にやられたふりをして国民世論を喚起し戦争を開始するのです。
その手法は現代も変わりません。

それについて、戦後日本を占領した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー自身がこう述べています。
「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫(すず)がない、ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域に存在していたのです。もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。

1941年11月26日、戦争直前の日米交渉においてアメリカから日本に提示されたハルノートというものがあります。
内容についてはここでは省略しますが、その苛烈かつ非情な内容によって日本は戦争を断腸の思いで決意したのです。
そのハルノートの内容について東京裁判のパール判事(インド)は「真珠湾攻撃の直前にアメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルグ大公国でさえも、アメリカに対して武器をとって立ち上がったであろう。」と述べています。

つまり、アメリカの挑発があって日本は戦争に向かっていくしかなかった訳です。
日本の軍隊は古より強いのでありますが、決して好戦的ということではありません。

当時アメリカのルーズベルト政権で国務次官を務めたサムナー・ウェルズは「ハル国務長官は、対日休戦や和解の考えを放棄し、十か条よりなる最後形式の提案・・・ハル覚書・・・を日本に手渡した。大統領も彼もこの提案を日本が拒否することを知っていた。そこに妥協や融和の考えは毛頭無かった。」と回想しています。

同じく、ハワイ太平洋艦隊駆逐艦司令官シオボールド海軍少将も「ハルノートは日本を鉄棒で殴りつけた挑発であった」とその著書で述べています。

またそれと併せて、当時のアジアはほぼ全域に渡って西欧諸国の植民地であり、それも原住民が搾取される隷属的でいびつな関係を強いられていました。
日本はアジアの植民地を西欧諸国から解放するという動機もありました。
しかし、日本が西欧諸国に変わってアジアを植民地支配し搾取していこうという意思はありませんでした。

戦後日本を占領したGHQは日本人が団結をして再び歯向かわない様に侵略戦争をしたという贖罪意識を持たせるべく洗脳教育を実施しました。
それは「戦争犯罪情報計画」」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)というもので、その悪影響は現在まで続いています。

「戦争犯罪情報計画」」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)は日本人の魂を骨抜きにするためのものであって、日本人は本来持っているであろうアイデンティティ・大和魂を喪失しました。

その結果、金・金・金・・・と拝金主義の人間が大量に増え、人のために奉仕するのではなく自分自身のことしか考えない、自分大事、自分のことで精一杯の人間が蔓延(はびこ)っています。

それは「日月神示」にも「悪の仕組は、日本魂を根こそぎ抜いてしもうて、日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。日本の臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれていても、まだ気付かんか」という件(くだり)によって指摘されています。

今度は魂が抜けているからグニャグニャぞ」という件は現代の日本人の魂の有様を現しているものと考えられます。

気功の施術院のブログで歴史を扱うのは関係がないと思われるかもしれませんが、日本人として自己のアイデンティティを確立することは、どのような考えを持ってどのような人生を送るかという生き方にも通じるものと思います。

継続される心の有様が病気を作る大きな原因であり、どのような心の状態で日々を過ごすかということは自分が何者であるか正しいベース・認識を持つことが重要です。
例えば、「うちは代々水呑み百姓の家系でご先祖さんが悪いことをしたから今の様な貧しい暮らしを送っているのよ。土地なんか持つ資格もないの・・・」と育てられるのと、「うちの家系は天皇陛下の落し胤であったご先祖様に由来するものであって実は高貴な出である。たとえ貧しくても誇りを持って生きなさい。」と育てられるのとでは、形成される人生観もまるで違って、送る人生も天地の差が生まれるものと思います。

最後に言いますが、私は戦争を礼賛しているのではなく日本と世界が平和である様強く望む者の一人です。
ただ、間違った史観を強いられ日本人が戦争をしかけた、植民地支配をしようとしていたと言われることについては我慢ならず、先の戦争で命を捧げてくれた多くの英霊に申し訳なく思うところが大きいのです。

また現在中国・韓国では反日感情が高まっています。
それについては国レベルでは嫌悪感を感じるものの、個々人の中国人・韓国人に対して反感を持っている訳ではありません。
中国人・韓国人の中にも意識の高い人物は多くいるでしょうし、私の親しい友人にも韓国人はいます。
自国の愛国心を持つことと、他国を悪く思うことはまったく関係がない別物と思います。

というわけで、この様なテーマで時々寄稿しようと思っています。
何分本業が多忙で先週も23時前に帰宅した日はなく、1泊店に泊まる日もありました。
そのような状況のため、筆は遅々として進まないと予想されますが一稿一稿熱い思いで書きますのでご愛読頂けましたら幸いです。


【参考文献】
「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」(吉本貞昭)


2015_02_23


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プロフィール

水野博友

Author:水野博友
気功家・ヒーラー・瞑想家
気功で人の病気や苦しみを癒すヒーラー

愛知県出身、早稲田大学商学部卒。
埼玉県さいたま市浦和区で気功治療院「外気功療法さいたま院」を開業、肉体の病~精神の病まで日夜 気功の施術を行っている。遠隔気功の実績も豊富。
満月時は日本の山に籠り密教修行を行う、また2011年より定期的にインド・ヒマラヤ、インドネシアに渡り様々な聖者の指導を受けて霊性修行に励んでいる。

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