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新年明けましておめでとうございます。
皆さまどのようなお正月をお過ごしでしょうか?

「一年の計は元旦にあり」と言いますが、今年の抱負を考えましたか?

1月2日の今日は、私は人に会わず孤独に過ごしています。
孤独が寂しいかというとそういうことでもなく、却っていろいろと思索に耽(ふけ)ることができるのでありがたいものです。
人は、他人と会っても成長できますが、1人の時間を持つことの方が精神的涵養(かんよう)になります。
人格の深みを醸成するのは、孤独で静かな時間でしょう。


今年の抱負を考えてみました。
2023年は、関東近郊の修行場を探していきます。
時宜(じぎ)を得るといいますが、まさに機が熟してきた感じを受けます。
源泉掛け流しの温泉が近くになり、ファイヤープージャ(護摩祈祷)を思う存分できる環境を見つけます。
そのためにも、湯治場に足を運ぶ機会は増えるでしょう。

なぜ、修行場が必要なのか?
それは私自身や私の下で霊性修行をしている生徒さん達が、密度の高い修行(瞑想やファイヤープージャ〔護摩祈祷〕)を静かでエネルギーが高い環境でする必要があるからです。

それは肉体・精神・魂の浄化を加速させ、神との繋がりを深めます。
エネルギーの高い源泉が近くにあれば、浄化は一層進むでしょう。


その修行場に籠もって、何をしなければならないのか?
自分のためだけに修行をするのでしょうか?

そうではありません。
何をするか・・・それは、日本を護るための祈りを捧げなければなりません。

日本を護るというと、「じゃあ、政治家になるのかね?」と思われる方もいるかもしれません。
それは違います。
確かに日本を良くしたいという想いがある人は、政治や経済の分野で活躍すれば国のためになるでしょう。
政治家は特にそうです。

しかし、そのような方が表で活躍する人とすれば、霊的な祈りの力で日本を護る極々一部の裏で支える人がいます。
特に日本の司祭王である天皇陛下を護らなければなりません。
そのような人たちは、無名で生涯を終え、ボロボロになりながらも誰からも感謝されずにこの世を去っていったことでしょう。
自身の人生をそのような活動に捧げ、霊的に日本を護ってきた人がいるのは疑いのないことで、現在の日本が存続しているのもそのような見えない力のお陰とも言えるでしょう。

私などは微力ですが、それでも人生をかけてやっていかなければならないと思っています。
それがこの世の最後の仕事になるでしょう。

今の日本は、政治的にはアメリカの属国で本当の意味の独立もしていません。
自らの国のことを決めていく主導権すらありません。
経済は、平成からの30年間まったく成長しておらず、衰退の一途を辿っています。
多くの民衆が貧窮し、希望を持てない国になっています。

更に昨今では、1億人を超える人がコロナワクチンを接種してしまい、今後の健康被害が懸念されます。
私は、すでに身の回りのお客様の動向からヤバいことになっていると気付いていますが、普通に一般企業にお勤めをされている人たちや主婦の方にはまだ実感がないことでしょう。
2022年は超過死亡者数が10万人越えたと言われています。
今後ますます多くの方が本当の死因も自覚せずに他界していって、人口減は加速すると思われます。

台湾を巡る国際紛争の高まり、そして食糧難の足音が近づいています。
考えたくはありませんが、今後未曾有の国難が来るように思えてなりません。

それと、何を置いても日本人の精神が骨抜きになっているのは口惜しいことです。
これは大東亜戦争敗戦後のGHQ(連合国軍総司令官総司令部)による占領政策に起因します。
それで、私たち日本人はアイデンティティを喪失し、大和魂がない抜け殻の人間になってしまったのです。
教育が何より重要ですが、今の文部科学省主導の学校教育には期待できません。
それだからこそ、教育は民間が草の根から広め、国民を覚醒していかなければならないのです。

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ちょうど昨年末、ある女性の生徒さん(Mさん)が「私の前世は特攻隊で死んだのだと思います」と涙ながらに語ってくれました。
神風特攻隊の気持ちが痛いほどわかるし、その動画を見ると泣けて泣けて仕方がないのだそうです。

それで、私も、

「私もそうだと思う。前世はおそらく特攻で死んだのだろう」

と答えました。

本当のところはわかりませんが、そう思わざるを得ないことが自分にはたくさんあります。
Mさんとは前世で一緒に戦っていたのかもしれません。
また、年末には別の人から、「自分の身の回りで、前世は特攻で死んだと言っている女性が2人います」という話も耳にしました。
こんなことはなかなか入ってこない話です。

私は神風特攻隊のことを考えると、胸が熱くなり、熱い気持ちが滂沱(ぼうだ)の涙となって溢(あふ)れてきます。
いつでもどこでもそうなります。
愛する人を守るため、笑顔で敵艦に突っ込んでいって死んだのだと思います。
今世はひょっとすると、国を護って死んだ功徳でご褒美なのかもしれません。

そんな私は恥ずかしながら、知覧特攻平和会館(鹿児島)も靖国神社も行ったことがありません。
行きたい気持ちは強いのですが、おそらく行ってしまったらその場で泣き崩れて立てなくなってしまい醜態を晒(さら)してしまうのではないかと思うからです。

特攻隊で死んだ若い兵隊さん達は、「七生報国(しちしょうほうこく)」という鉢巻きを巻いていました。
これは、何度生まれ変わっても皇国のために奉仕するという意味合いです。

今後の未曾有の国難を前に、私は今世最後の仕事に就かねばならないと思っています。
それが私にとっての「七生報国(しちしょうほうこく)」です。
何度生まれ変わっても日本を護り、子供や孫の住む日本を温かく穏やかで平和な国にしたいという熱い想いがあります。
気功治療は継続しますが、徐々にその比重を軽くすることでしょう。

なぜ、私は17年前に開業してずっと遠隔療法の依頼がひっきりなしで絶えなかったのか?
その答えがようやく最近わかってきました。
それは背後がそうして私の霊力・祈りの力を鍛えていたのだと思っています。
そうでないと、どうして宣伝もしていないのに、膨大な遠隔療法の依頼が続いているのか説明がつきません。
数万時間を遠隔療法という祈りの行に費やすことで、少しずつ霊力が鍛えられていたのでしょう。

日月神示」でいう大峠が近いとなれば、一人一人が苦難の時期を迎えることになるのかもしれません。
それでも2023年の一年を幸せで良い年にしたいですね。
お互いに辛いことがあっても頑張って前を向いて生きましょう。
皆さまのご多幸を祈念して、筆を置かせていただきます。



追伸

1月のサットサンガ(真理の集い)は「日本と天皇」というテーマで説法をします。
ご興味がある方は奮ってご参加ください。

【対面】1月21日(土)18時~20時 
【zoom】1月23日(月)20時~21時





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日本地図のコピー

【水野氣功塾】ブログを更新しました






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47日は、ちょうど75年前に戦艦大和が沈んだ日です。

 

戦艦大和は、大日本帝国が国の威信をかけて建造した最大最強の戦艦です。

生きて帰れることはないと知りながら、沖縄、そして日本を護るために出航しました。

戦艦による事実上の「特攻」でありました。

結果、私たちの祖父たち3056名が沖縄の海に散華しました。

 

今、奇しくも戦後最大の国難(80名死亡・47日現在)を迎えていますが、当時300万人が命を落とした大東亜戦争という当時の国難を振り返ってみるのも良いかもしれません。

 

5年前に書いた記事ですが、よかったらご覧ください。

 

➡ 現代の日本人へのメッセージ 戦艦大和が示した愛と誇り




日本人は強いのだ




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皆さん、こんにちは。

 

今日から令和時代となりました。

新しい時代を迎え、心機一転という感じがあります。

浦和の調(つき)神社も今日は参拝者の長蛇の列で、日本人の信心は素晴らしいと実感しました。

元号が変わるということは、正月を迎える以上の大きな節目になるのだということを、改めて思い知ったところです。

 

 

 

元号には日本の国の在り方・理念が象徴されています。

特に、世界における日本という立場を、二文字の元号で表していて、現実にその様な方向性に向かっている気がします。

 

 

 

具体的に時代をさかのぼってみてみましょう。

 

明治時代は、「明るくシラス(領らす・知らす=お治めになる)」時代。

明治維新で武家社会が終焉を迎え。開国し西洋文明を採り入れる様になりました。

日本が雄々しい明治天皇を中心に富国強兵を掲げ、力強く世界に発進した時代と言えます。

 

 

大正時代は、「大いなる正義」の時代。

日本(大日本帝国)は、第一次世界大戦の後に国際連盟で唯一の有色人種の常任理事国となり、列強の仲間入りを果たし存在感を示しました。

そして、パリ講和会議で人種差別の撤廃を提議します。

それは結果的にアメリカにより否決されてしまいましたが、世界の中で「大いなる正義」を発動した時代と言うことができます。

 

 

昭和時代は、「和を昭(あきら)かにする」時代。

大東亜戦争で日本は敗戦しましたが、世界中にあった欧米の植民地支配を駆逐しました。

暴力と収奪による強権支配から、和を以て国を治めることを昭(あきら)かに世界に示し、世界に新しい時代を拓きました。

千年後の歴史教科書では、昭和時代のことを「欧米の長きに渡る植民地支配を終焉させた時代」と表記されることでしょう。

 

 

また、平成時代は、「平和に成る」時代です。

この30年間、一度も戦争を経験することなく終えることができました。

これは実にありがたいことで、戦争がない時代というのはありません。

いくつかの震災や経済不況など大変なことはありましたが、それでも戦争がないというのは何にも増して安心なことです。

これは平成天皇の日々の祭祀のお陰であるといえます。

 

 

 

では、令和はどのような時代になるのでしょうか?

 

令和は、万葉集の一句から採ったというのは周知のところです。

ただ、「令和」という言葉自体は存在せず、和歌の中から「令」と「和」を取り上げて元号にしました。

 

令には「良い」という意味があり、「和を良くする」(≒和を広げる)という意味に近いのではないでしょうか。

世界にはまだ国家間対立や局地的な紛争が多くありますが、対立紛争を超えて和と結びの世界になっていく・・・この様な理想を掲げています。

日本の世界における役割は益々重要となりそうです。

 

 

 

また、文字の意味からも時代の特徴を探ってみたいと思います。

 

「令」とは、象形文字の作りを見ると、下記の様になります。

 

 Scannable の文書 (2019-04-30 13_47_33)

 

これは、「天から神が降りて、人々がかしづいている」という形です。

 

また、これは「日月神示」の中矢伸一先生が言っていましたが、「令和」とは、

 

「令≒霊」

「和≒輪」

 

となり、すなわちこれは「日月神示」でいう「霊(神)=hitukishinji-chon.jpg」 と「輪(肉体・人)=体」 になるわけです。


つまり、令和とは、神1であり、これは神と人が一体となった境地(神人合一)を表しますから、令和とは、神人合一や霊性進化の時代、または神が表に出る時代と読むことができるのです。

 

もちろん、元号を考案した人(内密にしていたけれどオープンにされたみたいです)は、もちろんこの様な意味まで考えていた訳ではないでしょうが、この様な動きを背後で動かしたのは、一つの神仕組と言って良いのではないでしょうか。

 

 

 

神が表に出る時代、または神の力が現れる時代・・・というとHAPPY!な時代という様な気もします。


私のブログをご覧になる方々は、見えない力とか神・信仰についてさほど抵抗がないものと思いますが、日本人全体で見れば信仰を持って生きている人がまだまだ一部に過ぎませんし、気(エネルギー)の実在を理解できない人もいます。

 

また、今の日本人は大東亜戦争の敗戦後に、アメリカによって日本魂(やまとだましい)が骨抜きになりましたから、アイデンティティを喪失していると見て取れます。

 

そのような多くの日本人が神を知るきっかけになるというのは、大々的な布教活動では土台無理な話で、おそらく巨大な天変地異、それに伴う経済崩壊になる可能性があります。

日本人は追い詰められないと自力では変われませんから、痛みを知って悟るしかないのかもしれません。

 

大局的には、これからの時代は世界の中心としての役割を日本が果たすという流れになる様ですが、抵抗勢力の力も大きく、そこまでの過程では大峠という激動の時期があると考えるのが妥当かもしれません。

 

 

国家、社会という大きな枠組みでも激震があるのでしょうが、個人レベルでもやはり相当しんどい思いをするのだと思います。

 

私もこれまでの霊性修行の歩みの中で、神仏がホレホレといとも簡単に与え導いてくれた訳ではなく、相当に苦労し苦しんで、もうダメ・・・というところでようやく奇跡というかどんでん返しがあって助けられたという神力発現のパターンを幾度も経験していますから、国や地球レベルでもその様なパターンになる可能性はあります。

 

大きな流れの中では楽観できますが、局地的なところではしんどい思いがあるのでしょうか。

 

 

もう一つ令和時代の特徴としては、日本人の霊的進化が促進されることでしょう。

私の周りでも、この人が!という人がスピリチュアルな道を歩み始めています。

令和の時代は、覚醒の時代と言えそうです。

 

上皇陛下は、とりわけ平和を希求する思いが強かった様に思いますし、その思いが日々の祈りとなり平和な日本を実現できたのだと思います。

 

日本と世界が平和で愛に満ちた世となります様に・・・

 

令和の時代も平和が続いてほしいと私も祈っています。



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2019_05_01


昭和天皇 
昭和天皇 広島行幸



皆さん、こんにちは。

今日は、昭和の日。
先帝 昭和天皇の誕生日であります。

今の世の中で天皇がどうこう言うと途端に右翼であるかの様に取られますが、日本という国は太古から天皇陛下が中心となって成り立って来たのです。

特に先帝 昭和天皇は大東亜戦争というとりわけ激動の時代を経験しました。
他の天皇陛下の中でもこれ程の過酷な経験をした人はほとんどいないのではないでしょうか。
昭和天皇は戦後自らの死を持って責任をとろうと考えましたが、それを知った貞明皇后はお怒りになられ窓の外の焼野原を見せて「全国を行脚して國民に謝りなさい」と仰せられたそうです。
そして、昭和天皇はボロボロになっている日本人を鼓舞しようと全国の巡幸を開始しました。

私は戦後日本の復興は昭和天皇のお力なしにはありえなかったと考えています。
昭和天皇が戦後日本人の精神的支柱となっていたのです。
とりわけ全国を巡幸した話は涙なしには読むことができません。
もし、私があの時代あの場に居合わせていたら、多くの日本人同様に昭和天皇のお姿に号泣していたに違いありません。

昭和天皇の巡幸についてはねずさんの記事に詳しいのでそちらをご覧ください。

 昭和天皇行幸


またYoutubeにも動画がありますのでそちらもご覧頂ければと思います。
この話は日本人が知っておかなければならない日本史の中でも上位に来る重要度です。


昭和天皇全国行幸 復興への3万3千キロ(1) 全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励ましたい


昭和天皇佐賀行幸「泣きじゃくる青年」 昭和天皇と共産主義の青年たち 昭和24年5月


昭和天皇 広島行幸 ←「これは見ておきたい!」



この本もとても良かったです。「ゴーマニズム宣言special 昭和天皇論」
何度も読みたい本です。




ご巡幸のシーンではそこにいる日本人の多くが「天皇陛下万歳」と喝采し、また涙を流して感動していますが、これは昭和天皇の権威がなせるものではなく、昭和天皇が日本の祭祀王として愛を体現しており、愛の力がなせる業でだったに違いありません。
昭和天皇はまさに現人神であられたのです。




2016_04_29


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皆さん、こんにちは。

今夜はこれからクリスマス・イブ、明日はクリスマスです。
チビッ子たちはサンタさんからプレゼントを貰える1年で最もワクワクする夜です。

クリスマスは日本全体すっかりお祭りムードですが、実のところ一体何のお祭りかというとよくわかりません。
多くの人はイエス・キリストの誕生日と思っていますが、イエス・キリストの誕生日ではないのです。
新約聖書にはその様な記述はありません。
「イエス・キリストの降誕を祝う日」というのがクリスマスであって、正確には誕生日ではありません。

私は別にクリスマスが嫌いという訳ではありませんが、私の場合は特に何の感慨もないので普段と生活が変わるところはありません。
クリスマス・イブの夜でも病気のお客様は来院しますので。



それよりかは23日の天皇誕生日の方が余程おめでたいと思います。
日本人は11月初旬からクリスマスに浮かれている場合ではなく、天皇の誕生日を静かに祝うべきでしょう。

天皇陛下は今年82才になられました。
会見で陛下は、



「この1年を振り返ると様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だった様に思います。」

「年々戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。」

と、述べられました。
全会見約13分の中で実に半分の時間を戦争に割き言及しています。
これには天皇陛下の戦争に対する強いメッセージが込められています。
以下、天皇陛下の会見で戦争について語った全文です。







今年は先の大戦が終結して70年という節目の年に当たります。この戦争においては、軍人以外の人々も含め、誠に多くの人命が失われました。平和であったならば、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると、非常に心が痛みます。

軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。

この節目の年に当たり、かつて日本の委任統治領であったパラオ共和国を皇后と共に訪問し、ペリリュー島にある日本政府の建立した西太平洋戦没者の碑と米国陸軍第81歩兵師団慰霊碑に供花しました。パラオ共和国大統領御夫妻、マーシャル諸島共和国大統領御夫妻、ミクロネシア連邦大統領御夫妻もこの訪問に同行してくださったことを深く感謝しています。この戦没者の碑の先にはアンガウル島があり、そこでも激戦により多くの人々が亡くなりました。アンガウル島は、今、激しい戦闘が行われた所とは思えないような木々の茂る緑の島となっています。空から見たパラオ共和国は珊瑚礁(さんごしょう)に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います。

パラオ訪問の後、夏には宮城県の北原尾、栃木県の千振、長野県の大日向と戦後の引揚者が入植した開拓の地を訪ねました。外地での開拓で多大な努力を払った人々が、引き揚げの困難を経、不毛に近い土地を必死に耕し、家畜を飼い、生活を立てた苦労がしのばれました。北原尾は、北のパラオという意味で、パラオから引き揚げてきた人々が入植したところです。

この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。







天皇陛下も戦後70年のこの年に戦争のことをよく考えたと述べられましたが、私もこの1年大東亜戦争についてのたくさんの本を読み勉強しました。
そして、知れば知る程、学校教育で受けた内容と史実がかけ離れていることを改めて知りました。

天皇陛下が「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。」と述べられたのは、戦争の悲惨さや酷さだけではなく、戦争に至った経緯や戦争の意義などについての「考えを深めていく」ことが大切だとおっしゃっているのでしょう。

つまり、私たち日本人の祖父たちが大東亜戦争で各国に戦争をしかけ悪いことをした、迷惑をかけたという「自虐史観」を持つのではなく、大東亜戦争によって白人による植民地支配からアジアを解放した意義などを知らなければならないのだとおっしゃっている様に私には思えます。

また、戦争に至った経緯も石油資源のルートを断たれて止むを得ないところまで追い詰められたということを忘れてはならないと思います。
時の東条英機首相は、戦争を避けるべく平和への最大の努力をはらいましたが、むしろアメリカが戦争を強く欲していたために起こったものであるということも重要な点です。
開戦のきっかけになったハワイの真珠湾攻撃以前にアメリカが中国経由で日本を空爆する具体的計画が存在しています。


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(出典:広島市

広島の原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。
これは主語が抜けていますが、普通に文意を読めば日本人が過ちをしたから原爆を落とされたのだという様にとれます。
これなども「何をか言わんや」で怒髪天を衝く(つく)とはこのことです。

日本人の大和魂が復活するためには、日本人一人ひとりが正しい史観を持ち、日本人であることに誇りを持つことが欠かせないものと私は思います。
今の日本人の多くはそれが欠けているため魂のないふにゃふにゃな民族の様に感じられます。

天皇陛下の短い会見の意図を汲み、その様なことを考えました。



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皆さん、こんにちは。

今年もお盆の期間が終わりました。
お盆休みを数日もらって心身をリフレッシュされた方も多いのではないでしょうか?


私は例年1日だけ休業日を頂き、実家の名古屋に帰り墓参りをする様にしています。
しかし、今年はなぜか行く気がせず、15日(土)の夜 仕事を終えてから家内の実家である長野県佐久市へ行きました。

佐久市は軽井沢の隣、標高は軽井沢より低いですが、風光明媚で夏は涼しく私はいつも地上の楽園ではないかと思うのです。


16日(日)は陽気もよく、息子と近くに散歩に行くことにしました。
近くには洞源湖という沼があり、昔からよく散歩に行くコースです。

息子に誘われ洞源湖までのんびり歩いていきました。
車も歩行者もなく、古びたバス停を見ては「1日2本しかバスが来ないんだね。」と言ったりしていました。
いつもは洞源湖の辺りでUターンして帰るところですが、洞源湖の前にお寺があり息子がそこに行きたいと言い始めました。

「え~、行くのかぁ」

と、言いながらまぁいいかと思い、息子について行ったのでした。

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そのお寺は貞祥寺という曹洞宗の寺院でした。
余り人気もない感じです。
2人で中に入っていくと、石の階段を登り切ったところに山門や伽藍があり、また地面一面が苔に覆われていてとても風情がありました。

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敷地の奥には三重塔もありました。
蝉しぐれや鳥の鳴き声だけがする静寂な寺院で、「ここで修行をできたらさぞ幸せだろうなぁ。」と思ったものです。



一通り見て回ったかなと思った時に、ちょっと上の方に行っていない一画があることに気付きました。
遠くからはよく見えませんでしたが、「なんだろう?あれは?」と近づいていくと、

「まさかぁ!!」

と、愕然としました。



何とそこには回天の慰霊碑があったのです。

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回天・・・今では知らない人の方が多いかもしれません。

回天とは大東亜戦争末期に開発された特攻兵器です。
特攻というと、飛行機での特攻を思い浮かべることでしょうが、回天は別名・人間魚雷と言われるもので、魚雷だか小型潜水艦だかわからない形態で、先端に爆薬を搭載してあり、兵士が操縦し敵艦に体当たりするものです。

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この回天は貞祥寺のものではありません (出典 : 回天


その兵器の形状は、魚雷を前後に切り離しその間に操縦する装置を付けたものと想像すると近いでしょう。
全長は14.75m、重量8.3t、直径はわずか1m、中に入ったら身動きができない狭さです。
最高速力は30ノット(時速56㎞)、結構早いでしょうか。
積載爆薬重量は1.55tで、通常の魚雷の3倍程度、巨大戦艦も一撃で撃沈させる力がありました。
耐圧深度は80m。これは余り深く潜れないということです。

考えるだけで酷い兵器ですが、その当時太平洋での戦局は悪化の一途を辿っており、このままではまずいと、起死回生の兵器を開発したのです。

回天慰霊碑の横の碑文にはこの様に書いてありました。
(読みづらいところもあり一部間違いもあるかもしれません)

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昭和十九年太平洋戦争年を重ねて苛烈となり、戦勢ようやく我に利あらざる時 憂国の至情に燃えし黒木博司少佐、仁科関夫少佐は第一特別基地隊に在りて前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷を完成もって劣勢の挽回を計らんと、「回天」と命名 徳山湾大津島に基地を定め日夜一人一艦必殺の戦法 操縦訓練に励む。
黒木少佐は訓練に殉死したるも同年十一月回天特別攻撃隊菊水隊の先陣に立ちし仁科少佐以下敵前進基地ウルシー・パラオ・コッスル水道・ホーランジア・グアム・アプラ港に また硫黄島 沖縄付近海域 中西部太平洋上に大津島 光 平生大神の各基地より出撃し敵艦に体当たり攻撃を敢行せり。
戦遂に利あらず昭和二十年八月兵を収むるまで戦没並びに殉職搭乗員の英霊百五十余柱 帰らざる潜水艦七隻その乗員八百十余柱を数う散華せし勇魂を仰慕し回天の偉業を後世に伝えんと創始者仁科少佐の出身佐久に永遠の世界平和を念じつつ長野県出身戦没並びに殉職搭乗員仁科関夫少佐 北村十二郎少尉 中島健太郎大尉 宮澤一信中尉の霊安からんことを祈念し戦友相寄り「回天之碑」これを建つ。






なんと佐久は回天の共同発案者である仁科少佐の出身地だったのです。
黒木少佐と仁科少佐は幾度も人間魚雷兵器の実現を提案しましたが、脱出装置もない必死の兵器開発を上層部は了解することはありませんでした。
しかし、両名はついに血書嘆願しこれを認めさせるに至り、回天が実現することになったのです。


この回天の最大の問題は操縦が困難を極めたということです。
潜水艦であるにも関わらずソナーもありませんので、要は目隠しされて暗闇の中を突っ走る様なものです。
操縦は各ゲージと海図縦舵機の針を頼りに行います。
つまり海図を見ながら計算しつつ操縦するのです。
通信機能はなく、一度切り離されると連絡手段はなくなりました。
一旦出撃すると、回天を降りることはできずまさに鉄の棺桶の様相を呈していました。

敵艦に近づいているのかとわからなくなれば、水面に浮上し潜望鏡を上げ周囲を確認します。
しかし、初めて行く海域で方位の確認、目標の探査は困難を極めたと思われます。
ましてや日暮れになれば何も見えません。
海面に近づけば、敵に発見される危険性も上がります。
うまく敵艦に突っ込めれば成果も大きかったでしょうが、目標を見つけられず無念のまま海中に没した搭乗員も多かったのではないでしょうか。

開発者の一人黒木博司少佐は、大津島で訓練中に海底に突っ込んでしまう事故に会い命を落とされました。
救助には時間を要し、10時間後に引き上げた時には黒木少佐は窒息死していました。
酸素が枯渇し暑さと苦しみで薄れゆく意識の中、黒木少佐が泰然と残した遺書は今も残されています。

もう一人の開発者である仁科少佐もウルシー停泊中の敵艦の攻撃に参加しました。
七生報国の鉢巻きを巻いて決死の覚悟の出撃でした。
七生報国とは、「七度人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」との意味で、1336年楠木正成が足利尊氏に敗れ死ぬ間際に誓った言葉であります。

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回天の攻撃を受けた米油漕艦「ミシシネワ」(出典 : wikipedia

仁科少佐は米油漕艦「ミシシネワ」へ特攻し戦死されたと言われています。
「ミシシネワ」は当時の最新鋭大型タンカーで、アメリカ側の戦死者は63名ということです。
黒木少佐は22歳、仁科少佐は21歳と、お二人とも人生これからという若さで散華したのでした。
回天による戦没者は145人で、平均年齢21歳という若さです。
戦後の日本は多くの若者たちの命を礎にして成っていることを忘れてはならないと思います。

回天について詳しいことは、佐藤秀峰さんの漫画「特攻の島」がお勧めです。
私も7巻まで買って読みました。
若者たちは親や家族、恋人、国を守るため死を恐れてはいませんでした。
しかし、犬死ではなく自分の命を懸けるだけの大義がほしいと苦悩する様子がリアルに描かれています。




その日、回天の慰霊碑の前でお祈りをしていると、身体が重くなってきました。

「あっ、誰か来たな」と思い、「戦後70年が経つが未だ成仏していない魂があるのだ」と切ない気持ちになりました。
多分、お盆で帰って来た魂ではないと感じました。

私は自分の身体に霊が掛かると重苦しくなってきます。
霊の苦しさが伝わってくることもよくあります。
私の場合は霊障について割と自覚していると思いますが、一般の方は霊障がわからないため体調不良や自律神経の問題と認識しがちです。

しばらくの間苦しい中でお祈りを続けました。
どれくらいの時間が経ったでしょうか、ふと


「平和な日本を実現してください。」


というメッセージが伝わってきたかと思うと、急に身体が軽くなりました。
おそらく、その時に上がってくれたのだと思います。


お盆の最終日・送り火をする日(終戦記念日の翌日でもある)にここに来たのは偶然ではないと私は思いました。
いつもは名古屋に行くのに、戦後70年の節目の年にここに来たのです。
今まで幾度も歩いた散歩道でありながら、立ち寄ったことのなかったこの慰霊碑に来たのは息子の誘いということもありますが、その背後で英霊のお誘いがあったのでしょう。

私の祈りが英霊たちの救いになっていればと思わずにはいられません。

日本だけではなく、世界の平和のための礎になってくれた英霊たちに心から感謝の意を捧げたいと思います。



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2015_08_18


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今日は8月15日、終戦記念日です。

アパホテルで有名なアパグループにはアパ日本再興財団があります。
アパ日本再興財団は「真の近代史観」懸賞論文として賞金総額500万円相当のコンテストを主催しています。
審査委員長は碩学の渡部昇一氏(上智大学名誉教授)で、確かな審査が行われているものと思います。
この栄えある第1回最優秀藤誠志賞を受賞したのが自衛隊第29代航空幕僚長だった田母神俊雄氏です。
田母神俊雄氏は論文が政府の見解と異なるという理由で要職を解かれ話題となりました。

2011年第4回の社会人部門で優秀賞を受賞したのが、発明家ドクター中松こと中松義郎博士です。
中松義郎博士は度々東京都知事に立候補したので、ご存じの方も多いと思います。

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中松義郎博士(出典 : 中松義郎博士プロフィール

国内では、変わった発明をするオジサンという印象を持たれていますが、この人程国内外の評価が分かれている人はいないのではないかと思います。

氏のプロフィールを見ると、この様に書かれています。




 Igノーベル賞受賞(ノーベル省受賞者が選ぶノーベル賞)ハーバード大学とMITで受賞講義
 国際創造学者 東京大学卒業後 工学・法学・医学・科学・人文学博士
米国科学学会で「世界一の偉大な科学者」に選定される
 米国国会表彰受賞
 国連アースデー日本代表
 ブッシュ大統領招待晩餐会において米国発明最高賞「発明先駆者賞」受賞
 教授、上級教授として各大学で講義
ペンシルバニア大学ウォルトンスクール、コロンビア大学スタンフォード大学、セントルイス大学、ワシントン大学、シカゴ医科大学、南カリフォルニア大学、アリゾナ大学、ドレクセル大学、サンディエゴ大学、サンノゼ大学、フィラデルフィア大学、メキシコ・セディス大学、ニューオルリンズ大学、カーネギーメロン大学、ピッツバーグ大学、アナハイム大学、シラキュース大学、東京大学
 5歳で最初の発明をし灯油ポンプ(14歳)、フロッピーディスク(19歳)、カラオケ、ファクシミリ、カテーテル、無線消化器体内検査装置、人工心臓、燃料電池で発明件数3367件以上でエジソンの1093件を抜き世界第1位
 IBM社に16の特許をライセンスしている世界唯一の個人
 アトランタ「国際著名人名誉殿堂」殿堂入り第一号
 ロサンゼルス「発明ライフタイムアチーブメント賞」受賞
 ナレッジリーダー賞を日本人として初の受賞
 アメリカ・ヨーロッパ・ロシア・アジアで国際発明最高賞V45受賞、ブッシュ大統領親書、アメリカ大統領賞、米国発明議会最高賞、発明最高賞、米シラキュース市長より偉業認定書、米ニューヨーク市長より偉業認定書、香港生産性本部表彰、オルタネーティブ医学会からライフタイムアチーブメント賞、アルキメデス大賞(ロシア)、ロシア科学最高勲章、EAST-WEST EURO INTELLEグランプリ受賞(ブルガリア)、ノルウェー発明グランプリ受賞 アメリカ・マン・オブ・ザ・イヤー、マン・オブ・ザ・センチュリー受賞、日本科学技術庁長官賞受賞、元日本ペンクラブ国際委員
 米国政府シェリフに任命・アナハイム大学副学長・教授・ロシア国際裁判官に任命
 スウェーデン発明議会名誉議長
 アルフレッド・ノーベルカールスコーガー市大使
 ドクター中松創研創業社長
 第1回中国国際EXPO基調講演及び最高来賓ロシア工業所有者VIPとして招聘さる
米国各市州の名誉市民:アリゾナ・ピーマ、トゥーソン市、ニューオルリンズ市、セントルイス市、ピッツバーグ市、ラ・ミラダ市、フィラデルフィア市、メキシコ・ティワナ市、メキシコ・エンセナタ市、サンディエゴ市、モンロービル市、メリーランド州
米国各市州が法律で「ドクター中松記念日」を制定:デンバー市郡 3/25 トゥーソン市 4/13 シアトル市 4/21 ピッツバーグ市 4/26 ニューオルリンズ市 5/3 ミズーリ州 5/5 セントルイス市 5/5 ロサンゼルス市 6/26 サンディエゴ市 9/8 メリーランド州 11/13 ニューヨーク州 11/26 コロラド州マニトゥスプリング市 5/10
 アメリカ、ブルガリア、オーストラリア、マレーシア、台湾、香港で合弁会社設立し会長
 アメリカNHBA上級理事
 ハリウッド映画協会理事
 全米ネットTV「ライフスタイル・オブ・リッチ・アンド・フェイマス」「デイビットレターマン」で日本のナンバーワンとして紹介ABC、NBC,CNN、BBCTV「フランク・スキナーショー」デンマークTVオランダTV他多数出演
 アメリカ大リーグ・パイレーツの始球式を大統領に代わり行う
ニューズウィーク誌の「世界12傑」に日本から唯一選ばれ、その価値1時間1万ドルと評価
 ドキュメンタリー映画「The Invention of Dr.NakaMats」デンマーク人監督(世界各国公開予定)





アメリカの幾つかの市で「ドクター中松記念日」を制定している、ニューズウィーク誌が選んだ講演料の高い人物12人に選ばれている、発明件数がエジソンを抜いて世界第1・・・と凄すぎる経歴が並んでいます。

東京帝国大学から帝国海軍機関学校に進んでいる超エリートであります。


中松義郎博士が書いた論文は、「日本は負けていない~超経験者しか知らない史実~」です。
私は日本が戦争で負けたものと思っていましたが、これを拝読しこの様な見方もあるのかと史観が180度転換しました。






【日本は負けていない】~超経験者しか知らない史実~
出典 : 
アパグループ第4回「真の近現代史観」懸賞論文受賞者発表



昭和20年8月15日正午、その日は天文台によると33度で特に暑かった。

突然「第二種軍装(夏用麻製仕立)の正装にて至急整列すべし」との館内モールス信号で校庭に集合し、直立不動で汗を流しながら待つ我々帝国海軍機関学校最後の海機58期生(昭和20年に海軍兵学校と合併)は、最後の帝国海軍将校生徒として整列し、ラジオから流れる玉音放送を聞いた。

海軍機関学校の入学試験の体格検査で75センチだった胸囲が、入校後の猛訓練と猛鍛錬で僅か3ケ月で104センチになった巨大な胸が歴史上初めての玉音放送に大きく高鳴った。

しかしラジオの雑音が多く、よく聞き取れない。
「本土決戦が近いので頑張るようにとの天皇陛下御自らの激励のお言葉」と全員が受け取った。

当時の日本人は全国民が「歴史上敗れたことがない神国日本は最後には必ず勝つ」と信じており、全国民誰一人として日本が負けるなどと考える者はいなかった。特に軍は全軍士気旺盛だった。

現に私のいた舞鶴軍港は二十四時間軍艦を造るリベット音が絶えず、食糧、武器、弾薬が豊富で、いつでも敵を迎え撃つ準備が連日連夜進められていた。

原爆研究については陸軍が東京帝大の仁科博士と理研に開発を依頼した「二号研究」(海軍は京都帝大と「F研究」)として行い、
濃縮ウランは海軍が潜水艦でドイツから運ぶ手配がされ、出来た原爆の第一弾をハワイに落とす作戦を杉山参謀総長は陛下に上奏したが、陛下は「原爆という非道なものは使うべきでない。 特にハワイには日本人が多いので却下する。」となり杉山参謀総長は解任され、東條首相が参謀総長を兼務することになった経過がある。

この様に非人道的爆弾と陛下が認識されていたものを日本に落とされたのだから、陛下の衝撃は大きく終戦する一つのきっかけになったと思われる。

しかし杉山参謀総長は、原爆開発を継続したのだ。
軍人は戦争に勝つために打てる手を全て打とうとする。

しかしそれは陛下の御意向に反しているので、原爆を造って勝っても、原爆を造らずに敵に原爆を使われて負けても、いずれの場合にも杉山参謀総長の責任なので切腹すると誓い終戦直後に切腹した。
元来日本は武士道を基に戦争を行ってきたのである。

陛下は米の原爆に対し非道だと禁じた原爆で応じたのなら「人類の文明が滅亡する」と終戦を御聖断された。

米が原爆を落とせば日本もこれに応じて米に原爆を落とす。
このことによって日米の多数の人が死に、この原爆戦争が世界に及び世界中の人が死ぬ。

これを防ぐために米が日本に原爆を落とした時点で終戦にされたのであって、日本が原爆を落とされたから、または負けたので終戦にしたのではない。
日本は負けていないのに終戦したのである。


これを文章にしたのが終戦の詔勅、
~~~~~~~
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所
眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ
尚 交戦ヲ継続セムカ
終二我力民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス
延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ
朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ
皇祖皇宗ノ神霊二謝セムヤ
~~~~~~~
であって、終戦の理由は負けたからではない、という意味である事を読み取ってほしい。

翌日の八月十六日には、帝国海軍航空隊による米本土突撃大作戦が予定されており、その猛訓練が行われていたことを陛下はご存知なかっただろう。

この作戦が実行されていればドゥーリトルの東京空襲によりミッドウエイ海戦の日が繰り上がったのと同じに米軍は、十月予定の本土決戦を急濾九月に繰り上げた結果、天候の条件も加わり日本が勝利する展開になったのではないか。

いつどこに敵が上陸するか、日本陸軍参謀本部と海軍軍令部の想定は、時期は九月又は十月、上陸地点は九州南部(「陸軍作戦名「決号・第6号」海軍作戦名「天号」。さらに翌年関東の九十九里浜に上陸)。

この日本軍側推定は米軍上陸作戦計画(米軍名「オリンピック作戦」(九州)「コロネット作戦」(関東)の「ダウンフォール作戦」)とピッタリ一致して日本は見事米軍の動きを見透していた。

陛下は侍従武官を九十九里浜に遣わして防衛体制を調べさせたが、侍従が「防衛は全くされていません。」との報告をお聞きになったことが終戦を決断された一因と伝えられる。

この時九十九里浜で訓練していた三千人の「伏龍」隊は、シールドにかくれていて侍従武官に見えなかっただろうし、又、米軍は九州を先に攻めると想定されたので、日本軍の陣立は九州南部を先に固め、そのあと九十九里を固めようとしたのであるので、陛下に上奏された終戦を決定する情報の一部に重大な誤りがあったのは残念だ。

これは開戦時の宣戦布告をワシントン大使館の怠慢により米国務長官への提出が遅れ、日本の騙し討ちという口実を与えてしまったことと同じ位に大きなミスだ。

本土決戦の火蓋がきって落とされた後をシュミレーションする。

先ず米軍は上陸地点の南九州に原爆を落とすだろう。
しかし陸軍参謀本部堀少佐率いる特殊情報部が原爆コールサインを五時間前に傍受していたので、近くの海軍大村基地の紫電改が発進し、B29を太平洋上で撃墜。

ついで艦砲射撃するため日本に近づいた米軍の日本本土上陸作戦に対する日本軍の準備は、完成した三千機の特攻専用機「劍」が、上陸しようと集まった敵艦艇に突っ込み、多くの敵艦を撃沈撃破し、水中からは千隻の特殊潜航艦「蛟竜」(海軍兵学校校歌「江田島健児の歌」の「地に潜む「蛟竜」からとった名」から泡の航跡が全く残らない日本海軍の世界に先駆けた発明九三式酸素魚雷が発射されて、敵艦艇は次々に轟沈する。

この猛攻撃からしぶとく残った敵艦に対し、岩陰に隠れていた海軍兵学校六十九期満野功大尉率いる第六十七震洋隊江ノ浦(静岡三津浜)など三千隻の「震洋」爆突特攻艇が轟々と暁に発進し、残る敵艦や上陸用舟艇に勇猛果敢に体当たり。それでも残る敵艦艇からかろうじて発進した敵の上陸用舟艇に対しては波打ち際の水中に展開する五式撃雷を待って潜む予科練出身者や海軍陸戦隊古兵の精鋭から成る三千人の「伏龍」隊が上陸用舟艇を爆沈させて波打際に寄付けないようにする。

それでもかろうじて上陸した敵兵を、五重の陣地で固めた世界最強の本土決戦部隊が米戦車より強力な新開発五式重戦車と共に待ち構える。

敵戦車に対しては最新鋭の「ロタ砲」で、敵戦車M2を遠方から撃破し、更に敵が近づくと「櫻弾」で厚い装甲を撃ち破り、もっと近づくと決死隊がチビ(ガラス球に人った青酸がス)を戦車のスリット窓にぶつけて操縦者の目潰しをし、次にキャタピラ破壊扁平爆弾を敵戦車のキャタピラの下に挿入してキャタピラを破壊し、敵戦車を動けなくし、止まった戦車本体の下に戦車爆雷を挺身突撃隊が放り込んで擱座させる。

一方、上空の敵機には大東亜戦争決戦機として開発された世界最強(戦後アメリカの実験で時速最大六九〇kmを記録し最高傑作機と評価された。)の中島飛行機製二千馬力四式戦闘機「疾風」や、ゼロ戦の次世代戦闘機堀越二郎設計の三菱製「烈風」が敵グラマンF6F、ノースアメリカンP51を次々と撃ち落す。

更にB29キラーとして海軍空技廠設計九州飛行機先尾翼型機首と強力三十ミリ機関砲四門搭載の「震電」が時速七百粁以上という、米軍戦闘機、B29より早い世界最速スピードで敵戦闘機に追い付き、敵機を一撃で撃墜する。

又、B29の前方上空に廻り込んで四門の砲でアッという間にB29を撃墜する。

種子島海軍大佐が開発し石川島重工業製の
世界初のジェットエンジン搭載の双発ジェット戦闘機「橘花」がB29を攻撃。

甲液「過酸化水素オキシノリン・ピオリン酸ソーダ」と乙液「水化ヒドラジン・メタノール・銅シアン化カリウム」を一〇〇対三六でミックスした脅威の推進力で、今迄達しなかった一万二千粁の成層圏まで従来型の飛行機では十数分かかったのを僅か三分五十秒で急上昇できる時速九百粁の画期的無尾翼型ロケット戦闘機「秋水」がその先頭部に搭載する強力三〇ミリ機関砲二門が火を吹きボーイングB29を一撃で次々と撃ち落すとして行く。
運よく残ったB29も新開発の二万米に達する新高高度高射砲で撃墜されて行く。

だがこれら最新戦闘機を動かす燃料はどうするのか?

そもそも大東亜戦争が始まったきっかけは軍艦や航空機に必要な石油を米英蘭三国が対日輸出禁止して日本経済を窒息させようとし、これに対してワシントンに交渉を行った甲案提示の野村海軍大将(大使)と東郷外相の秘策乙案を持った来栖大使が追いかけて米側と交渉。
ほぼアメリカが合意し日米和平が実現しようとしたのに対し、その翌日引っくり返り「日本の全権益放棄とシナ大陸からの日本陸軍の全面撤退」を要求する蒋介石の言い分を通した文章を共産主義者でソ達のスパイであったアメリカ国務次官補が草稿を書き、ハル国務長官がそれに署名した「ハル・ノート」の回答に、これでは日本は到底合意できないので日本が大東亜戦争を始めたというのが第一の理由だ。

この戦争を始める理由になった燃料については、私の先輩で百歳の長寿を全うした帝国海軍機関学校第四十期生木山正義機関中佐と、又、私の先輩東京帝国大学工学部桑田勉教授の研究により、南方からの油を頼る事なしにパイン・ルート・オイルから終戦直前十年分の燃料を創り出したのだ。

これに加えて更に「太陽と水と大地」があれば永久に生産出来るバイオ燃料を創り出す事に成功した。
しかも空襲に耐えるため蒸留工場を全国に分散して建設し、製造した。

この蒸留装置製造を実現できたのは海軍艦政本部が木山中佐の依頼に全面的に協力し蒸留装置を急速に造り全国に設置したからである。
これで日本は永久に戦える燃料を終戦前に用意できたのである。

本土決戦では日本は必ず勝つとすべての陸海軍参謀は確信していた。
一方、アメリカ軍上陸攻撃隊司令官は戦後日本軍の陣立てを見て驚嘆し「米軍は上陸に三回失敗しただろう。上陸に三回失敗すれば米軍の戦力はほとんど消耗し、戦争はベトナム戦と同様な状態となり、アメリカ国内で戦争反対の世論が起こりベトナム戦で米軍が負けたと同じく米軍は日本から敗退せざるを得ない。もはや戦えないので日本に和睦(降伏)を申し出るしかなかったであろう」と述べている。

ポツダム宣言を発した米国大統領トルーマンは、急死したルーズベルトから戦争を引き継いだとき、
日本の国土は九十%が山森であり、攻めるのが非常に困難な地形である。しかも廻りは海で近づきにくい「不沈空母」である。地形のみならず無傷の七百五十万の世界最強(マッカーサーが議会で証言)の日本陸軍が本土と東南アジアに展開し、この敵とどう戦いどうやって打破する事が出来るか見当もつかない。」と溜息して日記に書いている。

実は日本を空襲したB29から「アメリカは鉄が不足して船をコンクリートで造りはじめたり、男のパイロットが不足して女が飛行機に乗ったりしてアメリカは青息吐息だ。日本人よ、もう少しでアメリカが参るから、ガンバレ」というビラが撒かれた。恐らく乗っていた日系二世が日本上空から撒いたと思われる。

一方、昭和二十年五月にベルリンに居た藤村義朗海軍中佐がスイスでルーズベルトの代理人キャノンと交渉し、米側は「満州、朝鮮、樺太、千島列島(北方領土)は日本に残す。台湾は蒋介石と交渉してくれ。この条件で停戦しないか。和睦は急いでやりたい。」と驚くべき提案をして来たが海軍軍令部はこれを受けなかったと藤村中佐自身から私は聞いた。

これを継承したトルーマン大統領は、日本を降伏させるのは不可能で、どうにも打つ手が無く、手づまりだから「ポツダム宣言」というフェイントのような宣言を出した。
これは又、原爆投下をする言い逃れにもしたのである。

なぜフェイントのようかというと戦後、米、英、支のポツダム宣言の書類の実物を見ると、トルーマンしか署名していない事が判った。
イギリスもシナも署名していなかった。

これから見るとトルーマンの一人芝居だったことが史実として判明した。

そしてドイツ攻撃用に急いで実験的に作ったファットマンとリトルボーイの一つづつの二つしかない原爆を投下し、同時に数百個の原爆があるとウソの宣伝をして日本をおどした。

このフェイントのようなものに、まんまとお人よしの日本政府は引っ掛かってそのままのんでしまった。
これにはろくな返事も来ないだろうと思っていたトルーマン大統領自身もビックリした事だろう。

陸軍参謀総長、海軍軍令部総長という戦う陸海軍の責任者は前述のように本土決戦は勝つ見込みが充分あるから、天皇陛下の御前会議でもポツダム宣言受諾に絶対反対し戦争継続を主張したのであるが、天皇陛下が終戦の御聖断を下されたのである。

この会議室の入口で、特攻の海軍現場責任者の海軍軍令部次長の大西滝治郎中将が「あと特攻機が千機あれば勝てます(実際は既に三千機が用意されていた)。」と意見具申したが拒否されたので、大西中将はこれに抗議して切腹した。
切腹の介錯も頼まなかったのは怒りの表現であろう。

一方本土決戦の帝都の空の護りとして厚木にある無傷の帝国海軍航空本土防衛隊は、零戦設計者堀越二郎の新設計の四翼プロペラ延長回転軸式新型迎撃戦闘機「雷電」や川西航空機製「空戦フラップ」付の新鋭機「紫電改」などの一万機が厚木航空隊に温存され、強くて米軍から恐れられたラバウル海軍航空隊などから集められた歴戦のベテランパイロットが手ぐすねを引いて待っており、厚木海軍航空隊小園司令は終戦命令に絶対反対で最後まで降伏しなかった。

右の如く終戦時には「日本は負けていなかった」のは歴史的事実である。

そして「終戦」の実態は「負ける」どころか「血気にはやり、戦いたい」陸海軍や士気旺盛の国民に終戦を説得し抑えるのが大変だったというのが歴史的事実である。

しかしポツダム宣言に対して日本政府は「これは敵から申し出た和睦の条約」とまじめに甘く考えていてこれに乗ってしまったのである。

アメリカの新聞は大喜びで「日本は無条件降伏」と事実とちがう報道を行った。

アメリカの提示したポツダム宣言自体、八つの条件付であり、これに加えて日本政府は「国体護持」という条件付きで受諾したので、計九つの条件付和睦で「無条件降伏」は事実に反するのである。

又、ポツダム宣言にも日本の国としての無条件降伏とは一字も書いていない。
戦後の日本人が洗脳されて「敗戦」だとか「日本が無条件降伏した」と思っているのはまことに嘆かわしい。

さて日本は歴史上負けたことがなく、前例が無いので終戦のやり方が非常にまずかった。
通常どんな契約でも必ずネゴをして味方の条件を良くするものだ。

現に藤村中佐のスイス交渉では、ルーズベルト大統領が「満州、朝鮮、樺太、千島列島は日本に残す。台湾は蒋介石と交渉してくれ。」と言っているのだから、この線に戻すことは可能性大だったのだ。

だが今も昔も変わらぬ外国との交渉下手の日本政府はネゴをしなかった。
ところが和睦の条件の武装解除をして日本に武力を無くすると、アメリカは次のステップとして、日本の陸海軍を廃止させた。
これはポツダム宣言に入っていない。
更にアメリカはハーグ国際条約に反してアメリカ原案の憲法を日本政府に呑ませ、日本の政治家は一人として抵抗する「男」がいなかった。これは今日迄統いている。

又、進駐の翌朝から進駐軍は軍政を敷き、B円という占領軍貨幣を使わせ、日本経済をコントロールしようとしたが重光外務大臣と側近の岡崎氏の命を懸けた交渉でこれだけは阻止した。
軍政と通貨は、ポツダム和睦条件に入っていないのだ。

あたかも徳川家康が大阪冬の陣の和睦条件に外堀を埋めることとし人のよい豊臣方が呑んだら、内堀も埋められて、次に難癖をつけられ夏の陣で滅ぼされてしまったのと同じ手法だ。

先に述べたようにアメリカは国際法で禁じられている行為、占領軍による憲法制定を強引に日本政府に呑ませ、占頷下で手も足も出ない日本政府は屈服した。
軍人は切腹したのに政治家はこの不法行為に抵抗する「男」が誰もいなかった。

一方、ソ進は日本との不可侵条約が厳として存在しているのに、日本が終戦の仲介を依頼しているのを知りながらノラリクラリとこれを無視し続け、日本に宣戦布告をした。

樺太や千島列島の日本軍は上陸するソ進軍を撃退し、又、関東軍と朝鮮軍は旺盛な士気で朝鮮半島北部でソ連軍を待ち構えていた。

しかしソ進軍は、終戦後不法に北方領土を占領したのみならず支那大陸にいた六十万人もの純心な日本兵を「帰国させる」と偽って貨車に乗せ、シベリアに拉致し、重労働させた上、洗脳されないものは帰国させないと脅して共産主義教育を叩き込み、共産主義に洗脳された兵のみ帰国させ日本の教育界、マスコミ界、労働組合、演劇界にもぐり込ませた。

そしてGHQと共に日本を左傾させ、学生も勉学そっちのけで革マル、中核、赤軍派など学生運動を繰り広げてこの学生が今や成人して政治家となり偏向した現政府の幹部となって日本を動かしている。
そして産業も沈滞し道徳は乱れ、これらは現在日本が弱体化している基本的要素となった。

この「終戦」の実情、つまり「戦意旺盛の陸海軍や頑張っている全国民をいかに説得してやめさせるか」が終戦にするには大変な事で、「敗戦」どころの状態ではないのである。

この実態を知らない最近の日本人は「終戦」を「敗戦」と言い変えているのは史実に反する。
右に事実を説明したように実際に負けていない「終戦」と、負けたという「敗戦」は全く違うのだ。

昭和一桁初期以降に生まれた若い人は右に述べた本当の歴史を知らない。
だから日本政府の正式名称であり理論的に正しい「大東亜戦争」(太平洋だけでなく、ビルマ・インド等も含めた戦争)を米軍の言う「太平洋戦争」に言い換えたり、日本政府の正式名称「支那事変」を「日中戦争」と言い換えたり、国際間の正式国名の「チャイナ」又は「シナ」と言わず相手におもねって、又はお世辞で「中国(世界の中心の国)」と言っている。

「支那事変」は日本政府が正式に国家間での戦争と認めていないのだから、日本政府は「事変」と言っているのであり、この事実に反しているのを知らないで「戦争」というのは理論的にも誤っている。
又、「わが国」と言わず、他人の国のように「この国」と言っている人も洗脳されている人である。

占領軍は日本占領中新聞や手紙の検閲を行って「大東亜戦争」の使用を禁止し「太平洋戦争」を公文書に使うよう強制したが日本は独立している今もって間違った表現の「太平洋戦争」という名前を使って占領軍のトラウマに囚われているのだ。

さて終戦の詔勅の文章を協議する会議で詔勅原案の中に「戦勢日に非にして」という文章があり、某大臣から「日本は勝ったのか負けたのか?」と質問が出たのに対し阿南陸軍大臣は「勝ち負けの定義を「日本が支配している地域の大きさと兵の士気」とすれば、日本が戦争を始めたときの面積と現在(終戦時)の面積を比較すれば、現在(終戦時)の面積の方が大きい。
つまり日本はこの戦争で勝っていることになる。
しかも兵の士気は旺盛で日本は最後には必ず勝つと信じている。」と答え、詔勅原案「戦局日に非にして」は「戦局必ずしも好転せず」と訂正された。

阿南大将は「本土決戦をやれば日本は負けないので、本土決戦のあと講和を結ぶ」との陸軍の主張が聞き入れられず、御前会議で終戦が決定されたので、いさぎよく切腹した。
これは計画されていた大掛かりな陸軍のクーデターも抑える効果もあった。
介錯も断った見事な切腹だった。

この様な信念と責任感旺盛で主張が通らなければ、最後には自分の命を堂々と切腹して絶つという大臣は現在の日本の大臣に誰一人いないのは、日本人が終戦後いかに堕落してしまったかを示すものである。


右のように終戦時は日本軍に停戦を説得するのが大変で、まして敗戦ではないのが事実だ。
終戦の詔勅について私の小学校も大学も同じ迫水久常書記官長(現在の官房長官)と私は公私ともに非常に親しく迫水さんから終戦の御前会議の模様など色々重要な話しを直接迫水さん本人から問いた。

御前会議でおっしやった天皇陛下のお言葉をラジオで全国民に伝える正式な勅語の文章作成を迫水さんが任され、迫水さんが一高で教わった漢文の先生である漢学者川田瑞穂に文章作成を依頼され原案を作成した。

これを大東亜省顧問の陽明学者安岡正篤が手を加え、とくにこの詔勅の原文の中に「義命の存する所」という言葉が重要であった。

全大臣が終戦の詔勅の文章を協議する会議が十一日夜から十三日夜迄続き、訂正箇所が四十ケ所もあり、特に重要だった「義命」という言葉が某大臣から「辞書にないから「時運」にしよう」と提案があって書き直されてしまった。そして「義命の存する所」が「時運の赴く所」に変更され正式の終戦の詔勅になった。

私の名前は「義郎」だが、この「義」という意味は「道徳に基づく人として行うべき正しいこと」の意味で「義命」とは「信以て義を行い、義以て命を成す」意味であり 『「義命」の存する所』とは普通にいわれる大義名分よりもっと厳粛な意味を持っている。

国の命運は義によって造られて行かなければならない。
その義は列国との交誼においてもその治政においても信でなければならない。

その道義の至上命令に示す所によって終戦を選ぶのであり敗戦ではないという意味である。

簡単に言えば『日本はこれからは道徳に基づく正しい方向を行くべきだ』との意味であるが『「時運」の赴く所』は「時の流れのままに」という意味で、全く違う意味になってしまった。

だから今日でも日本は「時運の赴く所」つまり世に流されフラフラ流されてリーダーシップがなく国是も定まらない誇りのない国になってしまった。」と迫水さんが私に嘆いた。


又、終戦の御前会議で東郷外務大臣が陸軍が主張したソ連を仲介者にするという案に猛反対し、仲介者を入れるなら「蒋介石を仲介にしたらどうか」と提案があったが、近衛文麿が「蒋介石を相手にせず」という声明を出し「汪兆銘による南京政府」が日本によりつくられているので「蒋介石仲介はまずい」と横槍が入り、それではと不可侵条約を結んでいるソ連を仲介者にした。

結果はご存知の通り最悪で、ソ連は不可侵条約を結んでいる日本にかくれてヤルタで米英支と日本をやっつける会談(ヤルタ会談)にこっそり参加し、日本からの情報はソ連を通じ連合軍に筒抜けになっていた。

毛沢東の中共軍と戦っている蒋介石は、中共に勝つため日本に助けてもらいたいので日本に非常に有利な条件で仲介しようと考えていた。

戦後蒋介石は「なぜ自分に相談しなかったのか。自分に相談したならもっとよい条件で日本が終戦出来たのに」とくやしがったという。

先般あるテレビ番組で「中国戦線で敗走する日本兵」というコメントと映像が出た。
私の記憶では支那事変で日本が負けた戦線は知らない。

そこでその担当者を呼び「どこの戦線で日本が負けたのか」と質問したが、返事がなくごまかすので再度追求すると、結局「根拠がありませんでした」と白状し「おわび」が回答だった。

国の権威に関わる事実無根な「日本軍の敗走」を国民に誤報して、これを放送で訂正せず口頭の回答で「おわび」でお終いにしている無責任さ。
歴史を知らないのである。

元大蔵大臣の塩じいこと塩川さんも支那大陸に従軍し「支那戦線で武器を持っていなくても日本軍の軍服を着ているだけで支那兵は逃げた」と体験談を話している。


ところで私は最後の海軍将校生徒であり、又、最後の東京帝国大学生でもある。
戦時中の東大総長は世界に誇る一万トン重巡の設計者平賀造船中将だったし、東京都知事は陸軍教育総監の西尾寿造大将(その長男は現在ドクター中松創研の取締役営業部長)だったが、終戦時も日本のエリートは追放され、戦後の東大は、左翼の南原総長になり、占領軍によって、
「ゼロ戦」を作った東大航空工学科、世界一の戦艦「大和」を作った東大造船学科、戦後の米軍テストで米最新型グラマン戦闘機より命中精度が高かった事が証明されたゼロ戦の機関砲を追った西村教授の東大造兵学科など、日本を強く支えた研究の学科が強制的に廃止されただけではなく、東京帝国大学正門にあった「菊の御紋章」がはぎ取られ、名前も「東京大学」となり、「東京帝大」が「東大」になった。

名前だけではなくこの新制東京大学の学力レベルは、旧制東京帝国大学よりも四年以上下に学力レベルを下げてカリキュラムが組まれた。

麻布時代の成績が下の方の私の友人でも実際新制東京大学に人っている。
私達東京帝国大学学生十人に対して二十人の教授陣が取囲んで最高レベルの教育をし、最高の実験装置を持つ東京帝国大学は世界のトップレベルだったが、新制東京大学の世界ランキングは今年は世界二十四位までに落ちている惨状だ。
又、東大の学生自治会は完全に左だった。
私は中立の丁友会理事として学生の健全化に努めた。

日本は軍隊の強さも世界一(マッカーサーが議会で証言)だったが、戦後経済でもスイス、イギリス、ドイツを抜きGDPはアメリカに次ぐ二位となり、次にアメリカも抜く勢いで、アメリカでは日本を恐れて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本も出たくらいだ。

そして一九九三年には日本人の個人所得はアメリカ人を抜き世界一になった。
戦争にもビジネスにも強かったのは当事の日本人が青年時代に兵隊に行き、気力も体力も鍛えられ、又、まじめに高度な勉強をした昭和一桁初期の日本人(これを私は「超経験者」と言っている)による努力の結晶なのだ。

しかし占領軍による日本弱体化政策により戦後育ちは勉強も怠り、徴兵にも行かず、体力も気力も鍛錬されていないので、体力的にも気力的にも弱く知識経験も少なく、国際競争に勝てない。最近の日本の男はすぐ泣く。
山一證券倒産の時に社長が泣いたのはその象徴だ。

最近の若い男は草食系と言われ、やる気がなく泣き虫で、私が教えているハーバード大学やMITに日本人留学生がいない。
最近の日本人は留学するファイトもないのだ。
シナや韓国人が多数外国一流大学に留学しているというのに。

そして日本のGDPも二位から三位に後退し、日本人の個人所得もかつての世界一から現在二十七位に落ち込んでいる。
日本はこの状況から脱却せねばならぬ。

それには「超経験者」を指導者にして次世代若者を十五歳から全寮制で肉体と気力を鍛え、道徳修身を勉強させ更に世界より高いレベルの教育をしてゆく事が日本再生の基本なのである。

戦争中、私の家の玄関ドアに鍵をかけなくても泥棒が人らなかった。
しかし終戦後、同じ私の家で厳重な鍵をかけても何回も泥棒に入られたことでも判るように戦時中立派だった道徳心が高い日本人に比べ、修身を廃止した戦後の日本人の道徳の疲弊は驚くべきものがある


もう一度言う。
「日本は負けていなかった」

これを裏付ける賀川豊彦のマッカーサーヘの終戦直後の手紙の一部を添付する。

『マッカーサー総司令官閣下』
陛下の詔書の一分前まで全国民の戦意は燃えに燃え陸海空三軍の銃口が一様に貴官各位の胸に向けられていた事も事実なのです。
総司令官閣下
貴官は去る28日の厚木進駐の指揮者から進駐が平和的に日本側の満足すべき心づかいの中に先遣部隊の進駐を終了した報告を受けられたでしょう。

そして閣下は多数の日本人を眼前にされたでありましょう。
そしてまたその日本人が口をキッと結んでいる表情に気がつかれたことと思います。

日本人は最後まで戦うつもりでいました。
おそるべき原子爆弾がやがてわが身に落下するということを予想し覚悟しなかった者は只一人もありますまい。

またたとえ身は焼かれても粉砕されても戦争は陛下の指揮のあるまで続けてゆかなければならぬことを毛程も疑った日本人は一人もなかった事も事実ですが、それが、陛下の詔書によって戦争から平和へ完全に変向しました。

その決意の固さと新しい理想へ出発への努力が閣下の見られる日本人のキッと結ばれた口もとの表情なのです。
この様な民族が、国家が他に例を見ることができたでしょうか。』


最後に日本全国民が、もう一度「終戦の詔勅」を読むことを提案する。

そして負けていないのに終戦した無念さを思い起こし、そこに書かれている陛下が示されたこれからの日本の指針「総力を将来の建設に傾ける事」「正しい道を進みその心を堅持」「国体の真髄を発揚」「世界の流れに遅れを取らぬよう」を全国民が実行することが、我が国を立派だった古き良き日本に甦らせることなのである。

繰り返すが今迄「敗戦した」と殆どの人が思っている事は間違いであり、史実は「日本は負けていなかったのだ」という事を再認識し、これからの各人の行動を百八十度転換する事が日本再生の第一歩であることを確信し、日本が立ち直る起爆剤にするために本論文を発表したのである。 




最近、近代史の書を読むと私が学校教育で習ってきた歴史と違うことが書いてあるものと遭遇する機会が多くなっています。
特に大東亜戦争のことについてはそれが顕著です。

特攻というもの1つとっても、特攻は無謀な自殺行為の攻撃でほとんど戦果がなかったと知らされてきましたが、実際はそうではなくアメリカは特攻によって大変なダメージを受けていました。
その威力を恐れアメリカは日本の本土進攻を躊躇していたのが実情です。
日本人が国のためにこの様な武勇を煥発しない様、日本人の精神の弱体化を図り間違った情報を植え付けたのです。

田母神俊雄氏は「大東亜戦争を知らない日本人へ」でこう書いています。 
「『日本は戦う武器も能力もなく、食べ物も不足しているのに、軍部が勝つ見込みのない戦いを国民に強いていた。』というのは、戦後のアメリカの情報戦による洗脳である。」と。

国内には陸軍の精鋭部隊である近衛師団がほぼ無傷のまま、更に200万人の軍人と6000機の特攻機が残されていました。
マッカーサーが世界一強い軍隊であると称した日本の軍隊はまだ戦おうとすればできたのに、敢えて平和を選択したのです。

今日は終戦記念日ですが、日本は戦争に負けたのではなく、積極的に武器を置いた日と認識し、失っていた日本人としての誇りを取り戻す機会にしたいものです。



2015_08_15


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このブログはタイトル名にある様に気功のブログをやるつもりで始めました。
特に気功の施術について、また気(エネルギー)の話を中心にするつもりで企画していました。
もちろんそれは今でもやるつもりでいるのですが。

しかし、流れというか私の気分で神のことや先の大東亜戦争での歴史観についてのものが多くなり、自分自身は好きで書いておりますから良いものの、果たして読む人は面白く思うのだろうかと疑問でした。

まぁ、私は自分を曲げて人に迎合するよりも、少ない人数でも自分と共感できる人がいたらいいという思いでいますので、それはそれで結構なのですが・・・


気功のブログでなぜ戦争関係の記事があるのかと疑問に思う人もいるかもしれません。
これは一見つながりがない様に見えます。

先日、知人の女性と話をしていた時のことです。

「最近気功のブログをやっているのだけど、戦争関係や自虐史観の記事が多くなってしまってね・・・」

というふうに話したら、

「それはやっぱり関係があるよ。そこが基本だよ。」

と言って貰えました。
私はそれで百万の援軍を得た気持ちになりました。
わかる人はわかるんだなぁと思いました。


気功というのは50~60年前に中国で生まれた言葉と言われていますが、気功の様なエネルギー療法は太古から世界中にありました。
西洋ではヒーリング、スピリチュアル・ヒーリングと言います。

日本では気功という言葉が存在する前は手当て、霊気療法、光線療法、神手、手のひら療法、手かざし、愉気など多様な表現で言われていました。
密教で行う加持祈祷というもの広義には気功の範疇に入るものと思います。
その共通のベースとなるのはご神仏や霊とつながってそのエネルギーによって癒しを行うということです。

気功は色々とやり方がありますけれど、私が行っている方法はご神仏とつながるということで、そこが大事です。
そうすると、神について研究することになります。
どのようにしてご神仏とつながるか、人間の霊性を高めていくかは霊性修行にも関係します。
霊性修行とは魂を浄化して魂レベルを神に近付ける修行のことです。

神について語るとなると、日本における神々の系譜、またそれから敷衍(ふえん)して神国日本が出てきます。
また、日本の神について語る際には神典「日月神示」は外せません。

日本というのは神の国であり、世界の中でもとりわけスペシャルな存在であると私は考えています。
神国日本の中心となるのが天皇であります。

天皇を中心とする国家が完全に否定されたのが先の終戦であり、日本は連合国の支配下におかれGHQの洗脳を徹底的に受け骨抜きにされました。
先の戦争についても日本が悪い事をしたからやられてしまったのだ、原爆を落とされても当然だったのだという間違った史観を持つ人が増えてしまいました。
「日月神示」には戦後の日本人を指して「魂が入っていない」とか「フニャフニャである」とか書かれています。

GHQの思想コントロールの結果、日本という国がどの様な国であるか忘れ去られてしまいました。
日本という国がどの様な特色を持つ国なのか?
日本人はどこから来たのか?
また日本人の特性はどの様なものなのか?

それには日本の古代史も関係してきます。
日本の古代史も謎が多いです、というか謎ばかりです。
とりあえず学校で習った縄文時代、弥生時代の歴史観はゴミ箱に捨てた方がよさそうです。


先月、戦艦大和の記事を私は書きました。
 「現代日本人へのメッセージ 戦艦大和が示した愛と誇り

大和というと奈良県の旧国名ですが、この大和、実は由来がヘブライ語にあると言われています。
日本語の由来がヘブライ語?と思われるかもしれませんが、日本語には不思議とヘブライ語と共通する言葉がたくさんあります。(いずれご紹介しましょう。)

ヤマトという言葉はヘブライ語の「ヤ・ウモト」が由来であり、その意味は「ヤハウェの民」です。
「ヤ」が神・ヤハウェの短縮形で、「ウモト」が民という意味です。
旧約聖書の神がヤハウェ(Yahweh)です。

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そうなると、大東亜戦争で撃沈された戦艦大和という船は神が沈んだという解釈もできます。

ヤハウェについてもう少し。
日本人が山に登ると「ヤッホー!」と大きな声を出します。
これはヤハウェという神の名が変化した音です。
日本人は山に登って知らず知らずの内に神の名を叫んでいます。
また、私たちが毎日の様に目にする「Yahoo!」(ヤフー)というサイト、これも「Yahweh」(ヤハウェ)が本当の語源であるという説があります。

話が大分大きくなりました。

気功→スピリチュアル・ヒーリング→神、霊性修行→日本・日本人・天皇→???

と、つながっていくものがあると私は考えているのですが、その日本・日本人がどの様なものであるか、それを大東亜戦争で喪失していて、日本人の多くが日本人のことを悪いことをした国民だと自虐的に認識しているので度々それに関する記事を書いているのです。
何度も誤解がない様に書いていますが、戦争を礼賛している訳でも軍事オタクでもありません。

まずはそこを修正する必要があると私は思うのです。
それによって全部つながっていくのです。
これから書いていくブログの記事はパズルの1ピースであって、1ピースずつはめ込んでいって大きな絵を書いていく作業の様にも思えます。


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2015_05_21


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日本は約70年前、アメリカ・イギリス・オランダ・支那(中国)・ソ連などの連合国と戦争をしました。
戦後のGHQ支配の影響で、日本が悪いことをしたという教育・報道をされて多くの日本人がそう思い込んでいますが、実際のところは違います。

日本は戦争を回避すべく最後まで粘り強く平和交渉を続けていましたが、それがどうにも叶わず自衛のために立ち上がったのでした。
最も戦争を欲し日本を追い詰めたのはアメリカです。

日本はアメリカ・イギリス・オランダ・支那(中国)の包囲網により石油を断たれ、このままでは国が立ち行かなくなるというぎりぎりの状況まで追い込まれました。

当時アジア諸国は日本とタイを除き白人国家の植民地となっていて、隷属的な関係が敷かれていました。
アジア諸国には主権はなく、日本が資源に窮していても石油を輸出する国家はなかったのです。

日本は石油資源の確保と、アジア諸国の植民地支配を終わらせるために戦争を決意しました。

侵略戦争をしたと思っている人も多いでしょうが、日本は侵略をしようとする意図は持っていませんでした。
資源に乏しい日本は兵器を作る原料の屑鉄も満足になく、お寺の鐘や子供のおもちゃ等を回収しそれを溶かして再利用していました。
その様なことまでして他国を侵略しようとする国家がどこにあるでしょうか?

「でも、日本が1941年12月8日にハワイ真珠湾のアメリカ艦隊に奇襲攻撃をしたから戦争になったのでしょう?」と言う人もいるかもしれません。
しかし、その前にもアメリカ・イギリスとの局地戦は火ぶたを切っていました。

また、日本がシナで交戦していた蒋介石の重慶政府の兵器はアメリカ・イギリスが大量に送り支援していたものでした。
1941年7月(開戦の4か月前)にアメリカのルーズヴェルト大統領は100人のアメリカ人パイロットと500機の戦闘機を送っているのです。

日本が本当に侵略をしたのであれば、アジア各国から感謝やお礼の言葉は出ないはずです。
アジア各国は日本に深く感謝をしています。
それが歴史の真実です。




ククリット・プラモード(首相)

日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決意をされた日である。
さらに、八月十五日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。
われわれは、この二つの日を忘れてはならない。



タナット・コーマン(副首相・外務大臣)

あの戦争によって世界のいたるところで植民地支配が打破されました。
そして、これは、日本が勇戦してくれたお蔭です。

新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現わしました。
誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。



ソムアン・サラサス(タイ王国政府顧問)

日本は、ヨーロッパにより植民地化されていた多くの国々が目覚める機会を与えました。
東南アジアの国々は日本の闘いと東南アジアの独立を助けようとした日本の決意により勇気を鼓舞されました。
日本の姿勢と勇敢さにより、植民地化されていたアジア諸国はプライドを持ち、そのために将来のための心構えができたのです。



B・アンポン(元タイ国軍最高司令部日タイ連絡所勤務・通訳官)

大東亜共栄圏や八紘一宇など私は当時の日本の理想は正しいと思います。
日本は白人を追い払った後、戦前にイギリス、フランスから奪われていた領土をタイに返してくれました。
大々的にお祝いしましたよ。
日本は占鎖して自分の国にしようという考えはなかったと思います。
解放してみんなが独立して立派にやっていくようにという信念を持ってきたのでしょう、日本が犠牲になってね。
それを日本が侵略したとか、虐殺したとか言われていますが、私のみたところではそんなことはありませんでした。
みんな正しくやってくれましたよ。

タイの人は日本の兵隊さんは悪かったとは言っておりません。
仏領インドシナの人たちもそうですね。
ただ、日本軍は厳しすぎたということはありますが。……
とにかく、東洋人が白人を倒したのは日本人だけですからね。
何百年も前からそんなことはなかった。
それを私たちの前でやってのけたのですから大変な驚きでした。



ワイワイタヤコーン殿下(大東亜会議での発言)

日本政府は宏量(非常に心が広く)、よくタイの失地回復と民力集結の国民的要望に同情され、領土をタイに編入してくれた。
これは実に日本国がタイの独立及び主権を尊重するのみならず、タイの一致団結と国力の増強を図られたことを証明するものです。
タイの官民は日本国民に対して深甚なる感謝の意を表するものです。






参考文献
「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」(吉本貞昭/ハート出版)


「東條英機 歴史の証言」(渡部昇一/祥伝社)





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プロフィール

水野博友

Author:水野博友
気功家・ヒーラー・瞑想家
気功で人の病気や苦しみを癒すヒーラー

愛知県出身、早稲田大学商学部卒。
埼玉県さいたま市浦和区で気功治療院「水野気功療法院」を開業、肉体の病~精神の病まで日夜 気功の施術を行っている。遠隔気功の実績も豊富。
満月時は日本の山に籠り密教修行を行う、また2011年より定期的にインド・ヒマラヤ、インドネシアに渡り様々な聖者の指導を受けて霊性修行に励んでいる。

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