人を導くのに欠かせない「機を得ること」の重要性について
恐れや不安を抱き、魔に奉仕する人々

生きていれば不安や怖れが押し寄せてきます。
しかし、現在の社会の状況ほど大衆が不安と怖れを感じている時代はありません。。
目に見えない極小のウイルスの蔓延に怖れ、猛暑の外でもマスクを外さない多くの人々…
どこの店に入っても殺菌消毒を欠かさない多くの人々…
本当にマスク(市販のサージカルマスク)がウイルス感染の予防になるのでしょうか?
消毒を繰り返せば、外部の細菌・ウイルスから守ってくれる皮膚常在菌が死滅すると考えないのでしょうか?
私には今の社会状況が科学的という名の非科学が蔓延している様にしか思えません。
ガリレオガリレイは中世ヨーロッパで宗教裁判にかけられ「それでも地球は回っている」と主張した逸話が残っていますが、マスコミや無知の大衆はかつてガリレオガリレイを弾劾した勢力と重なってみえます。
21世紀になっても人類はたいして進歩しておらず、擦り込まれた社会常識という既成概念でワンパターンに反応・行動しているのです。
「本当にそうなのだろうか?」・・・それを自身の頭で考えなければなりません。
自分で考えるとは、テレビの報道を漠然と眺めていることではありません。
対立する概念を比較検証し、自身の考えを止揚するのです。
理性的かつ論理的に考えれば、何を行動の指針にすればよいかは明らかです。
新型コロナウイルスの感染拡大下にあっても、自粛やロックダウンを行わなかったスウェーデンのことを日本では結局ダメだったという報道がされていた様ですが、私が見たところでは鎮静化しています。
1日1~3人位の死亡者では気にすることはないというレベルです。
私は泉美木蘭(いずみもくれん)さんが好きで、彼女の記事を良く読みますが、最近の記事にこの様に書いてありました。
日本ではその発言をねじ曲げられて、「失敗の責任者」という扱いで報道されているスウェーデン公衆衛生局の責任者アンデシュ・テグネル博士は、地元ラジオ番組に出演し、各国の抑圧政策について、大量失業や心理不安、家庭内暴力、自殺などの副作用を生む「狂気の沙汰だ」と表現。
「世界が狂ってしまったかのようで、それまで話し合われていたこと全てが忘れられた」「感染者数があまりに増え、政治的な圧力が極めて強くなった。そしてスウェーデンだけが残った」とも述べた。
また、別のインタビューでは「ウイルスの撲滅はできない。共に生きることを学ばなければならない」「マスクの効果は科学的根拠が非常に弱いのに、いまだに着用を強制している国があることに驚いている」
私の知人に腎不全で透析をしているKさんという方がいます。
Kさんは大病をしていますから、最も感染に気を付けなければならない立場ですが、多数の客と会う時でも「マスクを外していいですよ」「コロナなんて嘘ばっかりですから」と気にする様子もありません。
地球全体で見れば、現在の状況は恐怖のエネルギーが蔓延し凄まじいことになっています。
恐怖の感情とは、「個」の存続が危ぶまれている時に出て来るエネルギーです。
ここでいう個とは、名前がついている肉体を持つ個体のことです。
私たち人間は、意識を高め、全体という「大きな個」に向かっている存在です。
「大きな個」に向かっている時は、他人や地球と調和できている時で、その時は愛情が高まり繋がりを深めます。
一方、「個」に向かっている時は、大いなるもの(神といってもよいでしょう)と断絶し、恐怖や不安などのネガティブな感情が強くなります。
霊性が高まり、神に近づいている魂ほど、愛のエネルギーが高く、平穏な心境で過ごしています。
大いなるもの・全体と繋がっている時は、心に不安や恐怖が出て来ることはありません。
常に安心立命の境地で、穏やかに呼吸ができているものです。
一方、感情のアップダウンが多く、不安と恐怖から攻撃的な姿勢でいる人は、霊性が高いとは言えません。
怖い怖い病になっている人は、全体への信頼と全託ができていない・全体との繋がりが薄くなっている証左なのです。
人は幾度も死を繰り返し、肉体を乗り越え魂を浄化している存在です。
そして、魂の浄化が進めば、やがて神へと進化します。
神に近づくためには愛の気持ちを高めることです。
なぜなら神は愛のエネルギーを糧としており、たくさんの愛を捧げてくれる者との繋がりを深めるからです。
分かりやすく言えば、神様のご飯は人間の愛と感謝の気持ちなのです。
一方、恐怖・怖れは魔のエネルギー源です。
魔は人間の恐怖や不安などのエネルギーを糧としています。
不安や恐怖が高まるということは、神との繋がりが薄れ、魔に近づく・魔に奉仕することを表しています。
魔は人間の恐怖感情がご飯ですから、今の地球の状況をみれば、美味しいごちそうにありつけてホクホク顔ということになります。
この世界は大局的には神のエネルギーと魔のエネルギーから成り、それらが拮抗しながら宇宙が運行しています。
今、自分自身の中にどれ程の恐れの感情がありますか?
それは主にどこから出て来ていると言えば、テレビなどマスコミに不要に反応させられて出て来ているのではないでしょうか。
「コロナに感染したら、重症化してしまうかもしれないし、死んだらどうするんだ!責任をとれるのか!!」
この様な理性的とは言えないセンセーショナルな反応は、神との分断状態で、芥子粒(けしつぶ)の様な「個」が存続危機というイリュージョンに陥っています。
そして、魔とつながって魔が恐怖のエネルギーを美味しくいただいている状態です。
コロナが流行る前にサットサンガで勉強しました
私は、「そもそも新型コロナウイルスは必要以上に怖れることはない」とインフルエンザと変わらない意識で対応しています。(しかし、店内ではお客様の安心のために消毒液を常備しています。)
というよりも、人類はウイルスに感染し、ウイルスの形質をDNAに取り込み進化してきたと考えていますので、ウイルス感染は人類という種が進歩していることとプラスに捉えています。
つまり、個体レベルでは亡くなる人も発生しますが、人類という種の進歩向上を成し遂げることができると種全体をみる意識でいれば恐れは全くありません。
そもそも、私は死そのものをネガティブに捉えていませんので、死生観や病気観が世間の常識とは大きく違います。
そこが違うと、反応の仕方も大きく違ってくるのは否めないところです。
【参考】
子供を持つ人生、持たない人生、どちらが良い?
地のマントラ行と龍玉
ある不思議なお爺さんの話

こんにちは。
今日はお客様から聞いた話をご紹介します。
そのお客様(Wさん・女性)は、幼い頃からスピリチュアルな感覚に富み、精神世界への強い関心を持っていました。
感覚が通常の人と違っていたため、幼い頃から「宇宙人」とからかわれて育ちました。
今回は、その彼女のお爺さんの話です。
そのお爺さんは、とある有名な教団に属し、その信心が大変篤かったそうです。
教団内では立場も上がりそれで良かったのでしょうが、教団の教義を家庭や近所付き合いに持ち込んでしまっていたため、家族や親戚はその考え方や行動について行けず反感を抱いていました。
家族を省みることなく、宗教活動に邁進していたので、家族の心も次第に離れ、誰からも相手にされなくなるのも時間の問題でした。
地域の人に誰それ構わず布教活動をするため、迷惑がられ、孫たちはそのためにいじめの対象になったのです。
Wさんもそんなお爺さんを「快く思っていなかった」と述懐します。
そのお爺さんが他界する間際の話です。
何と、そのお爺さんはお世話になった人達のところに暇乞いに現れたのです。
驚くべきことは、同時に複数の場に存在していたことが、その後の関係者の話で判明しました。
インドの聖者でもその様なことができる人がいるという話は耳にします。
シルディ・サイババやサティア・サイババもその様なことができたそうです。
しかし、日本の一介の爺様がそれをやって見せたというのは、驚くべき技であると言うことできます。
同時に複数の場に存在するというのは、修行が進めば可能な技であると私は考えていますが、なかなか容易な技ではありません。。
そして、幼かったWさんのところにもお爺さんは現れました。
果たして一体、何が起きたのでしょうか?
Wさんの話を忠実にお伝えしましょう。
彼女が横になっていると、天井にモクモクと雲が発生し始め、それが次第にWさんの顔の近くまで降りてきたというのです!
そして、その中からお爺さんの手がヌーと伸びて来ました!
お爺さんはWさんに向かって「さあ、行くぞ!」と誘ったのでした。
幼かったWさんも、さすがに付いて行っては生きてはいられないだろうと直感し、
「やだ!まだわたしは行きたいくない!」
と、断りました。
そうして断るとお爺さんは消えていったそうです。
「行く!」と付いて行ったら死んでしまっていたのでしょうか?
そこで断ったから、今もWさんは生きているのですが・・・
Wさんも不思議な感覚を持っていた少女だったので、修行が進んだお爺さんはそれがわかって連れていこうとしたのかもしれません。
そんな不思議な能力を持っていたお爺さんに対し、Wさんは、「いくら修行をしても、誰からも愛されることない生き方をしていては本末転倒です」「お爺さんは幸せではなかったでしょう」と、その生き方を肯定してはいませんでした。
お爺さんは幸せな人生だったのでしょうか?それはご本人しかわかりません。
修行が進んだお爺さんは、とても素晴らしい能力を他にも持っていた可能性があります。
しかし、それを上手く活用することができず、結局愛されることが少ない人生を過ごされたそうです。
神の教えを良い方向に使えなかったところは残念なところです。
霊性修行が進めば、霊能や神通力が副次的に発現することは珍しくありません。
教えの中では、その力はエゴを充たすために使うのではなく、困っている人・苦しんでいる人を助けるために使わなければならないと言われます。
それが菩薩行なのです。
菩薩行を重ねていく内に、周りの人からの感謝を集め、自然に愛される様になるのではないかと思います。
お爺さんが周囲の理解を得ることなく、貫き通したもの、また達成したものは一体何だったのでしょうか?
霊性修行は大事なことではありますが、「やはり、バランスが大切でしょうね」と、Wさんと共通認識を確認するに至りました。