気功治療の奇跡 ~神が現す「おかげ」の不思議~
category: 気功の施術の現場で

ガネーシャ神
皆さん、こんにちは。
今日は「おかげ」についてお話ししましょう。
「おかげ」とは、神のご加護・助けを受けることを言います。
よく「お蔭様で・・・」といいますよね。
日頃から見えない力、ご神仏を思い感謝して生きている人は会話の節々に「お陰様で・・・」という言葉が出てきます。
見えないものへの畏敬がなく自分の力だけで生きていると考えている人からはこの言葉は聞かれません。
人間は自分独りで生きている様で自分の周りの多くの人に支えられ生きています。
また、肉体を持たない先祖霊・守護霊、またはご神仏のサポートもあります。
実際、人は多くの見えるもの・見えないものに支えられ、つながりながら生きています。
さて、気功治療をしていますと、実に多様な症状のご相談を頂きます。
金曜日にはかねてから糖尿病で通院中のおじいさん(Eさん)が困惑して相談をしてきました。
「急に耳が聞こえなくなってしまいました。」
「今日は糖尿だけではなく、耳の方もお願いします。明日耳鼻科に行きますので・・・」
と、言って気落ちしていました。

Eさんは80才を過ぎているので元々耳が遠く、私はEさんとお話しする時は普段より大きな声で話します。
しかし、その時は急に耳が聞こえなくなったということで何を言っても全然通じません。
仕方なく、ジェスチャーで意思を伝えながら耳の気功治療を行いました。
翌週、Eさんとお会いすると聴覚が元のレベルになっていました。
「Eさん、耳良くなったのですか?」と伺うと、
「ええ、耳が聞こえる様になったのです。耳鼻科で耳クソを取ってもらいました・・・」
と、言うではありませんか!
「は~~(@_@;) 耳クソ!?」
と、心で思いましたが、それは伝えず
「耳が聞こえる様になって本当に良かったですね (^^) 」
と、ニッコリ、一緒に喜びました。
その時は「なんだよ~耳クソか・・・」と内心思っていたのですが、後から考えるとちょっと違ったことを思う様になりました。
私の気功治療は西洋ではスピリチュアル・ヒーリングといいご神仏の力を導くという方法です。
気功治療をしている時は、軽く手を添えたり、離れた所から気(エネルギー)を送ったりしていますが、その実態はご神仏へのご祈願そのものです。
ご神仏とつながりながら気を送り、その人の病気・症状が早期に癒える様にお祈りしているのです。
Eさんの耳が急に聞こえなくなったのは、耳鼻科では耳クソ(!)という診断になりましたが私がEさんの気功治療を行った時に本当にそうだったのかはわかりません。
神はユニークな方法で奇跡的な現象を現し、願意の実現を図ります。
本当は違う原因で耳が聞こえなくなっていたのに、神の力で耳クソが原因にすり替わっていた可能性も無下に否定はできません。
ある日突然両耳の耳クソが増大して耳穴を塞いで聞こえなくなったりするものでしょうか??
本当の原因は今では誰にもわかりません。
ただ、Eさんは不動明王とガネーシャ神をとても厚く信仰しています。
以前、大腸がんの手術を受けたお客様で、抗がん剤をどうしても受けたくない、何とかできないかというご相談を受けました。
入院して手術を受け既定のコースに乗ってしまっているので抗がん剤は避けては通れないということでした。
その時は遠隔治療をしたのですが、大腸の手術の後2か月位原因不明の下血が続き、結局病院が予定していた抗がん剤を実施することはできませんでした。
お客様ご本人も私も一体大腸がどうなってしまったのだろうと心配をし続けましたが、その後下血も止まり大腸は回復していきました。
後から、「あの下血のおかげで抗がん剤を受けずにすみました。」とご家族からお話があったのです。
神の力で医師が治療の方針転換をする様何かうまく手を回してくれたらスムーズなのにと思ったりもしましたが、願意の結果を出すために神は思わぬ方法をとることがあります。
神の力は実に偉大と思わざるを得ません。
「神を信仰する時は神に全託(サレンダー)せよ」
と、言われます。
神に祈りを捧げた場合は、何が起ころうが迷わず神を信じ続ける・・・そういうことだと思います。
ご神仏のご加護や恩恵があること・ご神仏に助けられることを、神道では「おかげがある」と言いますが、それに至るまでの道程では紆余曲折があり大変なことも往々にしてあります。
神は人間が努力もしないでおかげをくれることはありません。
この世に生きている人間が人それぞれ最大の努力をした時に望むものを与えてくれるのです。
つまり、「人事を尽くして天命を待つ」ということです。
色々と困ったり悩んだりしながら最終的に思うところ・望むところに到達できるのではないかと私は信じています。
何が起きても神を信じ受け入れ委ねきる、どこまで全託できるかが、それがある意味信仰の深さであります。
私も時には困った事が起きて頭を悩ませることもありますが、神に全託しているので問題に飲み込まれて心身を擦り減らすまでにはなりません。
最後の最後には「何とかなるさ」という神への信頼があるからです。
2月サットサンガを振り返って、そして3月の予告
category: 霊性修行

皆さん、こんばんは。
20日(土)の夜、2月のサットサンガ(真理の集い)を開催しました。
今回は「カルマの法則」をテーマに1時間お話ししました。
カルマはメグリ、業、因縁、借銭などとも言います。
カルマの法則は人間が輪廻転生をしているということが大前提になっています。
自分が行ったこと・思ったことで良いことも・良くないこともすべて自分とその係累に返ってくるという法則です。
※以下引用は「日月神示」
「めぐりと申すのは自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。」(黄金の巻 第七十七帖)
現在の自分に悩みや苦悩があるのは、まだカルマが残っているからと考えられるのです。
カルマは生きている以上完全になくなることはないのでしょうが、それが減少し微量になっていくと「日月神示」でいう「嬉し嬉し」の世界になっていきます。
「メグリあるから心配あるのぞ、メグリ無くなれば心配無くなるぞ。」(水の巻 第九帖)
「むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、悔しくなったりするのは、まだめぐりあるからぢゃ。めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢゃ。」(春の巻 第二十六帖)
自分が負うカルマは自分の過去世から引き継いでいるものと、家系の先祖から受け継いでいるものと主に2種類あります。(厳密には国家や人類のカルマという集合的なものもあります。)
サットサンガに参加をする方、神事に従事する方は自分自身のカルマを解消していくだけではなく、家系のカルマ(業)やより大きな単位のカルマも解消していく役目を負っていることが多いと思われます。
それだけに、その人生は困難が伴うことが多いのですが、果敢に人生の荒波を超えて修行をしていかねばなりません。
時には苦しさに弱音を吐きたくなることもあるでしょうが、わからない様で背後では神のお導きがあるのを忘れてはなりません。
神事に捧げた人生をやり遂げると7代末まで繁栄すると言われているのですから。
「この方の許へ引き寄せた人民、八九通りは皆一度や二度は死ぬる生命を神が助けて、めぐり取って御用さしているのぞ。奉仕せよ。」(黄金の巻 第四十帖)
※「この方」とは神の一人称表現です。
「その人民にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり試練であるぞ。わかりたか。」(春の巻 第二十四帖)

マザーテレサの苦悩はまさにこのことだったのでしょう
これは今回サットサンガに参加されたNさんのご感想です。
今日はサットサンガ、ありがとうございました。
今、こうして目に見えるものの世界で生きていると
目に見えないことに対してどうやって向き合ったらいいか
わからなくなる時があります。
きっと自分で選んできた人生のはずですが、カルマに向き合わないと
いけないとわかっていてもくじけることもとても多いです。
やはり人間は弱い存在ですね。
でも、こうやってお話をきけて生きて行くヒントをもらえると
また頑張ろうと立ち向かっていける気がします。
カルマは辛く大変なものだとばかり思っていましたが
生きる過程において、ギフトにもなるんですね。
それがわかっただけでもまた一歩進めたような気がします。
ありがとうございました。
またよろしくお願いします。
私自身もまだまだ修行が至らないと思いますし、一生が修行の連続と覚悟しています。
私の様に特別な行をしていく者もいるでしょうが、人はそれぞれが持つ「仕事」を通じて奉仕をしていくのです。
それが人生の修行です。
「仕」も「事」も共に「つかえる」と読みます。
誰に「つかえる」のでしょうか?
それはお客様であり、上司であったりすることでしょう。
でも、それだけではなく「つかえる」には「神に奉仕する」という意味があります。
自分の受け持つ仕事に専念することが神に奉仕することになるという意識を持つのが大事なのです。
またご一緒に頑張っていきましょう。
尚、3月のサットサンガは19日(土)19時からとなります。
説法のテーマは後日発表致します。
人の思いが結果に与える影響力・2 ~食に込められた思い~
category: 気(エネルギー)、気功

皆さん、こんにちは。
「人の思いが結果に与える影響力」の続きです。

これは万物に該当する法則です。
また、長期に渡って社会で成功する人は自分の心の使い方を知っているものです。
では、まず歌手のケースでお話ししましょう。
Aという歌手は、
「このステージで歌って幾ら入るかな」
「早く歌って終わったら一杯飲みにいきたいな」
・・・と思って歌います。
一方、Bという歌手は、

「今日は遥々私の歌を聞きに来てくれて本当にありがとう。私はみんなが日常の嫌なことを忘れて元気になれる様熱く歌うわ」
・・・と思って歌っています。
どちらの歌が聴き手の心に響くでしょうか?
たとえ、Aの歌手が音程・リズムを完璧に歌い上げたとし、Bの歌手が少し音程を狂わせていたとしても心にジーンと響くのはBだと思います。

「ボゲェ~」 心込めてもこれは無理∑(´□`;)
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次は料理人のケースでお話ししましょう。
Aという店は、飲食店のオーナーがお客様に「私が腕をふるったこの料理を美味しく食べてもらいたい。そのため食材も厳しく選りすぐったのです。」と心を込めて振る舞っている料理です。
一方、Bという店は、「当社の料理はすべてセントラルキッチンで作られており、個々の店では包丁を使う必要はなくバイトが袋をチン(もしくはお湯で温めて)開封するだけです。ローコストオペレーションで料理を提供しています。」という料理。
さて、どちらが美味しいでしょうか?
まぁ、これは食材やレシピが違うから簡単に比較はできませんよね。
でも、私は料理・食について次のように日頃考えています。
心がこもっている料理(A)は、その心が料理に反映され美味しさも引き立つものと思います。
だから「愛情を一杯込めました」という新妻の料理は美味いのです。(新妻じゃなくてもいいのだけど)
それに含まれている気(エネルギー)は身体のエネルギー体に浸透し、人間の心身をよりよい状態に育てます。
Bの料理は胃袋を満たすことでしょう、栄養学的にも必要なカロリー・栄養分が入っているかもしれません。
しかし、私にとってはそれは「正しい食」とは思えないのです
通説では人間は食べ物からカロリーと栄養分を摂取することで生きているとされていますが、実際のところ人間は食べ物に含まれている気(エネルギー)を摂って生きているのです。
周りにはいないかもしれませんが、世の中にはほとんど食べずに生きている人が存在しています。
そこまでいかなくても一日の必要カロリー摂取量を遥かに下回る微量の食で長く健康に生きている人はたくさんいます。
現代の栄養学はその様な人がなぜ生きているのか説明することができません。
心が込められていない料理や気が乏しい料理は人を元気にする力が乏しいのです。
食という漢字は「人を良くする」と書きます。
人は食べている物によって肉体と精神が養われるのです。
大地や太陽の良い気(エネルギー)をたくさん吸収した無農薬の野菜、それに作り手の思いが加わってこそ本当の食と言えると考えています。
これは「日月神示」の言葉です。
※


この世はみな




これから分かるように食とは身魂(みたま)、つまり身(肉体)と魂を養うものであることがわかります。
神に一度捧げられた食事はそこに神気が入り魂の滋養となります。
食に限らず、「本物」と呼ばれる物には制作者の心が入っています。
その様な物は波動(=気)的にも素晴らしいのです。
多少値段ははるかもしれませんが、自分の心身を健全に保つためにも、また人生の運気を良くするためにもそのようなものを積極的に選択する様にしたいものです。

(Q)同時期に同じ工場ラインで作られた同じ薬があります。一つはぞんざいな医師から処方されました(A)。もう一つは、あなたを思ってくれる親友からプレゼントされました(B)。さて、どちらの薬を飲んだ方が効くでしょうか?尚、服用の方法(量や摂る時間など)は同じ条件とします。
皆さん、こんにちは。
今日はクイズです。
問題は上記の通り。
「そんなのわかってるわー」と言われそうですが、果たして?
(選択肢)
1. そんなのAもBも同じに決まってる
2. 医師からもらったものだからA
3. B
世間の常識的な発想では1を選ぶことでしょう。
入試などのテストにはこんな問題出ませんが、出たら答えは1になるでしょうね。
正解は3です。
このブログを読んでいる方には簡単だったかもしれません。
なぜなら、物には人の気持ちという気(エネルギー)が入るからです。
科学の先端の量子力学の世界では、行為者の思いが結果に影響を及ぼすとされています。
Aというぞんざいな医師が処方したというのは、具体的にはこんなケースです。
医師 「は~、またあの爺さんが来たか・・・。あの爺さんはホント検査と薬が大好きだな。たくさんの薬を出してやったら喜ぶんだから、まったくいい客だ。おい、今日もまたいつもの咳止めの薬を2週間分出しとけ!」

「いいから出しとけ!」
・・・という感じ。
医師の中にはこの様な感じでやっている人もいるかもしれませんね。
一方、Bはというと、
「ちょっと、あなた大丈夫。咳が止まらないんだって。そんな話を耳にしたから今日は仕事を早く切り上げてお見舞いに来たのよ~。これね、私が前にあなたと同じ様になった時に治ったお薬なの。ここに来る時に薬局で買ってきたのよ。これ飲めば大丈夫だから。これ飲んで養生してね。また治ったら一緒にランチでも行きましょうね。」

「早く治ってね」
という感じです。
Bの薬には親友の「治ってほしい」という気持ちが入るのです。
「治ってほしい」という気持ちは気(エネルギー)であって、普通の感覚の人には感じられないかもしれませんが、実際物に入るのです。
その思いが強ければ強い程、物に気(エネルギー)が入ります。
私の場合は、願望成就の祈りを込めた神気をブレスレットなどに込め当店で斡旋しています。
私の仕事である気功治療もそうした祈りの行為に他なりません。

祈りとは「意が乗る」こと。
意(意思・気持ち)が気に乗るのです。
気功治療でもどんなにたくさん術者から気が出ていても、「治ってほしい」という祈りを込めなければ一向に効きません。
祈りを込めず気(エネルギー)だけ送られている状態は空鉄砲を撃っているのに等しいと言えます。
祈りの気持ちが強ければ強い程、効果が現れるのです。