祈りに力があるのだったら祈っていれば何もしなくていいのですか?
私もこの様な衣装を着てバリ島で修行をしたものです
皆さん、こんにちは。
今日は祈りと自助努力についてお話しします。
まずは次の創作を読んでみてください。
ある年の大雨の出来事です。
信仰深い中年夫婦(以下、イゾンさん〔仮称〕とします)がある村に住んでいました。
イゾンさんは朝晩の礼拝を欠かさないとても信仰深い夫婦です。
聖地に訪問した際にはいつも感激で涙がこぼれてしまう程です。
お祈りに熱心で近所付き合いがよろしくないのが玉に瑕なところもあります。
3日前から降り続く豪雨で近くに流れる大荒川の水かさは増す一方。
イゾンさん夫婦の自宅は大荒川の堤防の直ぐ脇にありました。
イゾンさんは、集中豪雨で川の水かさが増して決壊が近くなっている情報を耳にし「大丈夫だろうか??」と不安を募らせていました。
しかし、明け方になりとうとう堤防は決壊し川の濁流が村一帯を飲み込みました。
イゾンさん夫婦はなんとか自宅の屋根に上って周囲を見ると、川の濁流で周囲の家々は水面に屋根を残すのみになっていました。
そんな状況でも雨は降り続き、段々と更に水かさが上がってきます。
イゾンさん夫婦は屋根の上でお祈りをしました。
「どうか神様、この大雨を止めてください。そして私たち夫婦をお助けください。」
すると、願いが天に届いたのか雨は上がり風も収まってきました。
しかし、川上から流れて来る水の勢いは止まらず水かさは更に増してきました。
水はイゾンさんの足元まで及ぼうとしています。
すると何ということでしょう!空からバラバラと自衛隊のヘリコプターが飛んできて、イゾンさんの自宅の上で止まってくれました。
自衛隊員は「もう大丈夫ですよ。さあ、ヘリへ!」と手を差し伸べました。
ところがイゾンさんは、
「私たちは大丈夫です。主が私たちを救ってくれます。神のお力で水はすぐに引きます。大丈夫です。どうぞお構いなく。」と言うや否やしゃがみこんでお祈りを始めてしまいました。
あっけにとられた自衛隊員はイゾンさん夫婦を仕方なく諦めその場を立ち去りました。
しかし、その直後、濁流がイゾンさんの家に押し寄せ、2人を飲み込んでしまいました。
それから2人とも姿が見えなくなりました。
2人は気付くと閻魔様の前にいました。
「あれぇ!?閻魔様だ。ん??ということは、私たちは死んでしまったのか。なんてことだ神は私たちをお救いにならなかったのだ。あぁ、神よ。なんて無情なのだ。」
すると、閻魔様は怒ってこう言いました。
「お前たちは一体何を寝言を言っているのだ!神はわざわざ自衛隊のヘリを派遣させてお前たちを救おうとしたではないか!それを拒否するのだから死んでしまったのだぞ!!お前たちの信仰は神に依存しているだけだったのだ!!」
このフィクションから分かることは神に熱心に祈りを捧げていても自分ですることはしなければ助けてもらえないということです。
この話の中ではイゾンさんは自衛隊の救助に応じてヘリに乗れば命が助かったのです。
それを神が水を引かせて自分たちを助けてくれるものという思い込みで判断を誤ったのです。
この例はいささか極端ではありますが、神仏への信仰を持っていれば何でも自然にうまくいくものだと考えている人が時々います。
もちろん、信仰を持つということは神を信じることであり、大事なのは自分に起こることはすべて自分に必要なことであると受容し、何が起きても神にサレンダー(降伏する、従う)することと言われています。
ですが、ただ漫然と祈りが成就するのを待つということではダメなのです。
凡人であると自覚する者は、自分でできるだけの努力をしてその結果を天に委ねるのでなければ事は成就しません。
「一億円がほしい」「イケメンで高学歴な彼氏がほしい」「○×商事に就職したい」「来春には局長のポストがほしい」等々・・・タナボタを待っているだけでは、そんなものはいつまで経っても落ちて来ないのです。
「天は自ら助くる者を助く」
とか
「人事を尽くして天命を待つ」
という言葉がある様に、自分で最大限の努力をしなければなりません。
そして往々にして、努力を尽くして「もうダメだ」「もうできない」という境地に至った時に事が成就するのです。
これもまた法則です。
そこまで自分を追い込むだけの覚悟と実践が必要ということです。
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