サン・ジェルマン伯爵の不老不死伝説

私の様な一介の気功治療家にはその巨大な全貌はわかりませんが、只その奇妙な存在感は人を惹きつけて止まないものがあります。
今回はその人物について語ってみたいと思います。
その人は、サン・ジェルマン伯爵。
2000年とも4000年とも言われる驚くべき長命を誇り、歴史の重要な出来事にはこのサン・ジェルマン伯爵が関わってきたと言われています。
人間が1000年以上も生きる!?そんなことが可能なのでしょうか?
不死身の紳士
正体不明のサン・ジェルマン伯爵は、自身の体験として次の様なことをしたと語っています。
それは、まさに自分がその場にいて実際に体験したかの様なリアリティのある語り口であったそうです。
・紀元前10世紀頃、シバの女王と歓談した。
・紀元前5世紀頃、ネブカドネザル大王が築いたバビロンの都にいた。
・紀元前1世紀頃、シーザーのローマ凱旋を見た。
これだけではなく、イエスキリストを実際に見たとも語っています。
そのサン・ジェルマン伯爵が初めて歴史に登場したのは、1710年のこと。
フランスの作曲家ジャン・フィリップ・ラモーが、サン・ジェルマン伯爵に会った記録を残しています
「サン・ジェルマン伯爵というのは不思議な人物だ。50才ぐらいに見えたが、あるいはもっと若いかも知れないし、逆にもっともっと年をとっているのかも知れない。恐ろしく話題が豊富で、ついつい話にひきこまれていく。彼と話しているとなんだか時間を超越した世界に生きているような気がしてくる……」
ラモーがサン・ジェルマン伯爵と会った時、その容姿は45才~50才位でした。
その40年後、パリの社交界にサン・ジェルマン伯爵は姿を現します。
ジェルジ伯爵夫人がポンパドール公爵夫人のパーティーでサン・ジェルマン伯爵と約40年ぶりに再会し、その姿をみて驚愕した発言をしています。
作曲家ラモーが会った1710年にサン・ジェルマン伯爵が50才位だったとすると、40年後には90才というヨボヨボの老人になっているはずですが、実際サン・ジェルマン伯爵は老人どころか男ざかりの中年の姿で現れたのです。
「そのとき(1710年頃)あの方は、45才から50才の間ぐらいでした。サン・ジェルマン伯爵に違いありません。」
1758年4月15日にサン・ジェルマン伯爵はヴォルテールと会いました。
後日、ヴォルテールは、プロイセンのフリードリヒ2世に宛てた手紙の中でサン・ジェルマン伯爵についてこう言っています。
「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」
一方、フリードリヒ2世も彼を「死ぬことのできない人間」と答えています。
ある人が、サン・ジェルマン伯爵の使用人に「あなたのご主人が2000才というのは本当なのでしょうか?」と聞いたことがありました。
それに対し、使用人はこう答えました。
「それはお答えすることができません。なぜなら、私は300年しか伯爵にお仕えしていないからです。」
また、ある人と歓談中、サン・ジェルマン伯爵が過去の出来事を思い出せなかったことがあり、それについて使用人に尋ねると、「伯爵、私は伯爵に500年しか仕えておりません。その出来事は私の前任者の代に起きたことです。」と答えたと伝わっています。
サン・ジェルマン伯爵は超長寿ですが、使用人も常識では考えられない位の長寿だったのです。
しかし、不死身のサン・ジェルマン伯爵にもついに死が訪れる日が来ました。
最期はうつ病とリウマチで、苦しみながら亡くなりました。
死亡した記録は、ドイツのエッケルンフェルデの教会の古い戸籍簿に次の様に残っています。
「世にいうサン・ジェルマン伯爵、あるいはヴェルダン伯爵。1784年2月27日死去。3月2日埋葬。その他の事項不明。一個人として当教会に埋葬」

サン・ジェルマン伯爵は死にました。
ところが・・・なぜかサン・ジェルマン伯爵の姿はその後もフランスで目撃されたのです。
死んでなかったのか?それとも、死んでから生き返ったのか?
翌年には秘密結社の集会に参加しているところを目撃されています。
そして、フランス革命の際にサン・ジェルマン伯爵が動いていた証拠が出て来ているのです。
サン・ジェルマン伯爵の尽きない財力
1760年5月31日から6月3目にかけて、『ロンドン・クロニクル』紙に、「謎の男」というタイトルでサン・ジェルマン伯爵に関する興味深い記事が掲載されました。
サン・ジェルマンはドイツからフランスヘ、高名な錬金術師との触れ込みでやってきた。
「秘密の粉を所持し、それが万能薬らしい」「純金を作り出すことができる」ともっぱらの評判だ。
彼の優雅な暮らしぶりがその動かぬ証拠だという。
噂を聞きつけたある大臣は、「あっという間に化けの皮をはがしてみせる。」と豪語し、探偵を雇って男の資金源を調査するよう依頼した。
何食わぬ顔で男の館を訪問した探偵が、歓談中にそれとなく尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「錬金術に欠かせない資金ともいうべき賢者の石。その源である採石場を近々貴方にお見せしよう」。
何とも機知に富んだ回答だが、謎はますます深まるばかりだ。
男が探偵の魂胆を見抜き、はぐらかしたのか、単なる偶然だったのかはわからない。
が、その後2年間監視を続けても、男の暮らしぶりは変わらず、金払いもよいままなのに、どこからその金が流れ込んでいるかは、結局わからずじまいだったという。
驚異的な長命も不思議でなりませんが、それだけではなくその財力も謎を呼んでいました。
特に、サン・ジェルマン伯爵は身の回りに多くのダイヤモンドの装飾品を付けていたためです。
サン・ジェルマン伯爵は貴石・宝石にも大変造詣が深く、多くを所有していました。
その訳は、サン・ジェルマン伯爵が錬金術師だったからと言われています。
錬金術とは、卑金属(金以外の金属)を金に変換する技術のことで現代の科学でも不可能なことです。
サン・ジェルマン伯爵はそれを可能にする魔法の粉を持っていたという伝承があります。
それ故に非常な財力を誇っていたのでしょう。
また、ダイヤモンドをいかなる方法で生み出すのか興味は尽きませんが、実際にダイヤモンドの傷を消したという記録もあります。
歴史の黒幕としてのサン・ジェルマン伯爵
その異常な長命の歴史の中で、サン・ジェルマン伯爵は様々な形で歴史の重要事項に関わってきました。
ある時は反革命勢力のスパイ、陰謀家、錬金術師、鑑定家、将軍など・・・次々と名前と職業を変えて歴史を動かしてきた痕跡があります。
その内の2つの事例をご紹介しましょう。
フランス革命という世界史上の代表的な市民革命で、王政が終焉を迎えた時、断頭台の露と消えたのが王妃マリー・アントワネットです。
王妃マリー・アントワネットはフランスを脱出しようとしたところを捕まり、牢獄に幽閉されました。
その後、死刑判決が下され、肥運び用の馬車で市中を引き回された後に、公開のギロチン刑となったのですが、革命直前、王妃マリー・アントワネットはサン・ジェルマン伯爵から警告の手紙を受け取っていました。
ここで特筆すべきは、この手紙がマリー・アントワネットの下に届いたのは、サン・ジェルマン伯爵が死亡し埋葬された後のことであるという点です!
「これが最後の警告です。まだなんとか間に合いましょう。民衆の要求を聞き入れて、貴族たちを抑え、ルイ16世は退位されることです。…… あなた自身が強く力を尽くして対抗しなさい。それ以外の方策はもうありません。あなたは、もはや愛していない民衆から離れて、謀叛者たちに口実を与えないようにすべきです。ポリニャックやその同頬どもを見捨てなさい。彼らは、この前バスチーユの役人を殺した刺客たちにつけ狙われています。そして、いずれは殺される運命です」』
しかし、マリー・アントワネットはサン・ジェルマン伯爵の警告に従うことなく悲劇の最期を迎えました。
サン・ジェルマン伯爵は自分の警告が受け入れられなかったことを大変残念がっていました。
2つ目の話もフランスでのものです。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは、何か大きな力を「赤い服の男」から伝授されたという言い伝えがあります。
1814年モスクワ侵攻に失敗し、その勢力を失いつつあった頃、ナポレオンは塞ぎ込み人との面会を控えていた時期がありました。
その時にある訪問者がナポレオンを訪ねました。
「今は一切面会拒絶だ。」とナポレオンが召使いに断りを入れると、その訪問者は、
「赤い服の男が来たと伝えてくれ」
と、再度面会を申し入れました。
それを聞いたナポレオンは度を失い、「丁重におもてなししてこちらへお通しする様に・・・」と伝え、人払いをした部屋で赤い服の男と2人だけで面談をしました。
そこで話された会話は当然ながら記録に残っていませんが、皇帝であるナポレオンが赤い服の男に必死に何かを懇願する声だけ聞こえ漏れて来たと言います。
それは、ナポレオンに与えた力を奪い返しにきたサン・ジェルマン伯爵だったと言われています。
力をサン・ジェルマン伯爵に奪取されたナポレオンはその後再び盛り返すことなく、皇帝の座を奪われエルバ島へ流され、失意の下に生涯を閉じました。
サン・ジェルマン伯爵の公式(?)の最後の目撃記録では、インドに向けて旅立つ発言が残されています。
「私は君たちと別れなければならない。たぶん、もう一度会えるだろう。まず、コンスタンティノーブルへ行くのだ。私を必要としている人たちのためにね。それから英国へ行って、次の世紀のために、二つの発明の準備をしなければならない。汽車と汽船だ。季節は少しずつ変わるだろう。まず春が来て、それから夏だ。私にはソレがわかっている。天文学者も気象学者も何も解ってやしないのだ。私の言うことを信じたまえ。私のようにピラミッドを研究する必要があるのだよ。今世紀の終わり頃、私はヨーロッパを去って、ヒマラヤ地方へ出かけるつもりだ。少し休みたいのでね。85年後の今日、もう一度私に出会えるはずだ。では君たち、さようなら。」
これによると、サン・ジェルマン伯爵は次代のエネルギーである蒸気機関の開発に携わり、汽車や汽船という交通手段を世に出す使命を負っていたことがわかります。
サン・ジェルマン伯爵は歴史を自身の判断によって好き勝手に動かしてきていた訳ではなく、自分より高位の存在、大いなる力の指令に従って動いていると折に触れて語っていました。
サン・ジェルマン伯爵は薔薇十字団やフリーメイソンといった秘密結社に関わっていたと言われています。
おそらくそれは、末端の一会員ではなく、組織を動かすトップに近い階層位にいたのではないかと思われますが、その組織よりもより大きな力というものが世界情勢を動かしており、サン・ジェルマン伯爵は自身をその手先であると言っているのです。
一体、その大いなる力、巨大な組織とは何なのでしょうか?
更に近代では、サン・ジェルマン伯爵がアメリカ合衆国の国旗のデザインや独立宣言の起草に関わったとも、イギリスのウィンストン・チャーチル首相が対ドイツ戦の助言を受けたとも、伝わっています。
この様に、サン・ジェルマン伯爵は歴史の各ページに足跡を残してきており、アメリカの偉大な予言者エドガーケーシー(睡眠状態に入り、リーディングをすることで有名)をして、
「サン・ジェルマン伯爵はなぜか必要な時にいる」
と言わしめました。
サン・ジェルマン伯爵は現在も生きて活動しているのでしょうか?
私には知る由もありませんが、ひょっとすると世界のどこかで暗躍しているのかもしれません。
サン・ジェルマン伯爵の不思議な能力
超長寿という1点だけでも不思議でなりませんが、長命がなせる技なのかサン・ジェルマン伯爵は非常に多彩な能力を持ち合わせていました。
まず言語能力ですが、サン・ジェルマン伯爵はドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、ピエモンテ訛りのフランス語、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、アラビア語、中国語を流暢に話すことができました。
永い人生の中で世界中を旅していたのでしょう。
日本を訪問したという発言をした記録(1790年頃)も残されています。
また、芸術的才能も際立っていました。
音楽では、クラヴサン(バロック時代に頻繁に活躍した鍵盤楽器)とヴァイオリンを見事に弾きこなすことができ、発明されて間もないピアノの演奏もお手の物でした。
ヴェルサイユ滞在中に何度かヴァイオリンのコンサートを開催していますが、内一回は楽譜なしでオーケストラを指揮しています。
更に作曲にも習熟していて、歌唱力も非常に高かったということです。
絵画の才能もまたしかり。
宝石の様に煌びやかに輝く絵を描いていました。
どのようにしてその様な光沢のある絵が描けたかその理由は不明ですが、真珠を絵具に混ぜていたとも、ダイヤモンドを使っていたとも推測されています。
また、美術作品に対する鋭い鑑賞眼を持っていて、巧みな偽物も即座に識別することができました。
絵画の才能とは違いますが、右手と左手を同じ様に扱うことができ、両手で別々に文字を書いた後にそれを重ね合わせると、ピッタリ重なり合うという離れ技を披露したことがありました。
また、右手でラブレターを書きながら、左手で神秘的な詩も書けたのです。
更には他心通(読心術)の能力があったため、人と会った時に相手の発言の内容があらかじめ読み取ることもできました。
また、テレパシーの力で、遠方で自分が必要とされている時はそれを感知し動いていた様です。
サン・ジェルマン伯爵の人物像
サン・ジェルマン伯爵の容姿はいつの時代も40~50才で、それは変わる事はありませんでした。
中背で程よくしまった体型をしており、髪は漆黒、顔の皺はほとんど目立つことはなく、肌はやや浅黒い色をしていました。
本物の上流階級の人間にしか持っていない高貴な品位、威厳、教養を兼ね備えていました。
もっとも、人を畏怖させる感じではなく、対面すると自然とかしずいてしまうもので、それは聖者厳とした人格から発せられたものでした。
社交界に顔を出してはいたものの、サン・ジェルマン伯爵が食事をしているのを見たことがある人はいません。
普段は霊薬エリクシルとカラスムギしか口にせず、それだけで生命を維持していました。
少食が長寿の秘訣であるとは現在でも言われていることですが、サン・ジェルマン伯爵の場合は超少食でした。
霊薬エリクシルというのが、長命の秘密なのかもしれません。
また、サン・ジェルマン伯爵は東洋の秘教に精通していました。
インド・ヒマラヤで習得した能力を用い、日々瞑想を実践していました。
サン・ジェルマン伯爵はヒマラヤに修行場を持っていて、永い人生の中で幾度か世間を離れてそこで修行をしていたと言われています。
ヒマラヤでは85年間もの長きに渡って修行をしたそうです。
常人にない数々の能力はヒマラヤの聖者から授かったのかもしれません。
神智学協会(1875年~現在)を設立したマダム·ブラヴァツキーは、サン・ジェルマン伯爵と頻繁に会っていると発言しています。
ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (Helena Petrovna Blavatsky)
神智学とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとする教義で、神智学協会は現在でも世界に3万人程会員がいます。
マダム・ブラバッキーは、サン・ジェルマン伯爵を「大尊師」として崇め奉っており、またサン・ジェルマン伯爵がヒマラヤのシャンバラと呼ばれる地下帝国からやって来たのだと言っています。
その意見を汲めば、サン・ジェルマン伯爵はヒマラヤで修行をしているのか、ヒマラヤにあるシャンバラ帝国への入り口から故郷に帰っているのかはっきりしないところです。
1939年にはアメリカの飛行士がチベットでサン・ジェルマンと名乗る僧と遭遇したと語っています。
僧とは言うものの僧衣ではなく『中世の身なりをした西洋人』だったとのこと。
その発言からすると、20世紀になってからもサン・ジェルマン伯爵は生存していることがわかります。
そして、おそらく現在もサン・ジェルマン伯爵は肉体を持って存在しており、人類の次への進化のための準備をしているものと思われます。
人類の意識が向上するための活動・働きかけをしているのでしょうか?
そうすると、ある特定の人物には何らかのコンタクトが来ている可能性があります。
また、サン・ジェルマン伯爵の研究家によれば、サン・ジェルマン伯爵は1984年から日本に来ているということです。
【参考文献】
「三重の叡智」(サン・ジェルマン伯爵)
オカルト・クロニクル http://okakuro.org/
ヘブライの館 2 http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F/_floorB1F.html
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