2018年1月修行後記~人間関係の感情をコントロールする~

皆さん、こんにちは。
1月の山の修行が終わり、埼玉に着いて記事を書いているところです。
上の写真は師匠が半年かけて作った瞑想小屋です。
山の斜面の崖を重機も使用せずに削り、そこに瞑想小屋を建てたのです。
工事中の場面
師匠は大工ではありませんが、独力で洞窟を掘ったり、家屋を建てたりします。
それは手先が器用というレベルではなく、本当に見事な技です。
しかも、いつも図面も引かずに頭の中だけの設計図で次々に作り上げていきます。
「なぜできるの??」
弟子達は誰にもできない芸当に舌を巻きます。
そして工事中の師匠のことを「棟梁!」と敬意を込めて呼ぶのです。
毎月私は師匠の修行場を訪れていますが、その度に何か新しい物ができていて、いつも度肝を抜かれています。
今回は、師匠が名付けた「秘伝瞑想小屋」が完成していました。
私はその小屋で修行仲間とほぼ3日間朝から夜まで籠って瞑想をしていたのです。
その最中、師匠は小屋の中にあるホーマ(護摩炉)で香木プージャを行いました。
これは土曜の夜に行うご神木プージャとは異なるものです。
その時、師匠は人間関係において感情をコントロールする重要性について次の様に説法をされました。
この世界で生きていくのはどこまで行っても苦がつきまといます。
とりわけ人間関係の悩み・問題は尽きることがありません。
特に夫婦や家族、仕事の上司・同僚など関係が近い者との摩擦で私たちは心を悩ませます。
一体、なぜ私たちはその様な苦しみを味わうことになるのでしょうか?
釈迦はこの世は生老病死の四苦があり、人間として生きる以上その苦しみから逃れることはできないと説きました。
一時的な喜びはあれども、この世界は圧倒的に苦しみの方が多いです。
その苦しみを終わらせるためにも、私たちは修行をして魂を磨き、輪廻の軛(くびき)から脱却する(=解脱する)必要があります。
よく見れば、この世は性格の相反する者がなぜか身近にいて、人間関係の衝突がどこでも起こっています。
それはなぜかというと、魂の向上になる修行をさせられているからです。
人間がこの世界に生を受けた目的は魂の向上です。
修行により魂を浄化し続け、神と同じエネルギーになるのが人間の生きる目的です。
ところが、現在は末法の世と言われ、法は廃れ人々は神を見失っています。
金銭欲・所有欲・権力欲を満たしたり、五感を満足させる快楽を追い求めたりすることに汲々し、人間本来の生の目的を知らない人がほとんどです。
この娑婆(しゃば)では性格や思考の相反する相手が身近にいるため、怒りや不安などの感情が常に自分の中に起こってきます。
ネガティブな感情に振り回されることは、自分自身の身体や人生そのものを破壊する行為となり、毒を吐くのに等しいのです。
それで肉体の病気になったり、うつや精神の病になったりする人も随分いるものです。
感情に振り回され続けていては魂の向上にはなりません。
そのため霊性修行では、自分の感情を如何にコントロールするかが要となります。
では、自分の感情を乱す根本的原因は何でしょうか?
その答えはいろいろありますが、相手への期待がまず挙げられます。
相手に期待するから、それを裏切られると感情が乱されるのです。
親切心や親心で相手のために「ああせい」「こうせい」と指示命令しても、相手がそれに従うとは限りません。
むしろ考え方が異なる相手であれば従わないことの方が多いでしょう。
それで自分の感情が乱されるなら、相手に期待せず管理支配しようとしない方が良いです。
魂の向上のためになることを第一義とするなら、ネガティブな感情に振り回されない様にしなければなりません。
感情に振り回される位なら無責任にほかっておけばよく、その相手の面倒は神がみてくれると思っていれば気は楽です。
例え相反する相手と摩擦の末に勝っても満たされるのは一時的でしかありません。
しばらくすると次なる問題や刺客が現れて、また同じことに直面することになるのがオチです。
切っても切れない相手がいる、逃げようと思っても逃げられない相手がいる。
では、どうしたら良いのでしょう?
結局は相手を許し認めてあげなければ、根本的に解決することはないのです。
それは言う程たやすいことではありません、厳しい厳しい修行です。
私は人より執着が希薄であるという自覚がありますが、それでも人間関係で面倒な思いをすることがあります。
今回師匠が行ってくれた香木プージャで自分の苦の原因に〇〇があることに気付き、一つ壁を乗り越えた感がありました。
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