神への信仰を持つ人は心が弱いのか?
category: 霊性修行

私はよくこの様なご相談を奥様から受けることがあります。
それは、奥様がご神仏やスピリチュアルなことに関心があり、自分自身が見えない力によって支えられていると考えているのに対し、ご主人はそのようなことにまったく関心がない、それで夫婦の価値観が合わないというお悩みです。
(男性がスピリチュアル的で、女性がそれに無関心という逆パターンはほとんど聞いたことがありません)
この点に価値観の相違があると、特に奥様は夫婦の関係性を維持していくのに苦労をします。
多くの男性は会社勤めをしており、仕事上での成果達成に日々四苦八苦しています。
スピリチュアルとは、精神世界ということであり、霊的・神的、気(エネルギー)的な思想とも言えると思うのですが、サラリーマンの様に仕事で目の前の成果に追われていると、スピリチュアルなことへ意識が向かなくなりがちです。
その結果、どうしても物質的な価値観にとらわれがちになるのも致し方ありません。
そして、目に見えるもの、聞こえるものだけを信じ、世界観が形成されています。
科学的なことですべては説明できると信じている人も実に多いです。
その一方で、経営者・事業家は意外と目に見えない力によって生かされている・支えられているという信条を持っていて、スピリチュアルなことに関心が高い人が多い様に思います。
うちの店には男性の社長さんもよくご来院になります。
多くの男性が目に見えるもの、科学的なもの、物質的なものによって信条・価値観、世界観が形成されている中で、その人達は神仏に祈るというのは心が弱い人がするものであるという考えをお持ちの方もいます。
果たして神仏への信仰を持つことは心が弱いのでしょうか?
確かに、神仏に対して色々な祈りを捧げることは親に依存している様な関係に似ているとも言えます。
「宝くじが当選します様に」とか
「素敵な彼氏が現れます様に」とか
「お金がもっと増えます様に」とか
「Q子ちゃんが彼氏と別れます様に」とか
まぁ、色々と、時には人様の不幸をお願いすることもあるのでしょう。
この様なお願い事は我欲に基づくものなので、高尚なお願い事とは言えません。
「日月神示」ではその様な考え方を、自己中心的として「われよし」と言います。
この意識レベルで神仏と関わり方は確かに依存的でありますので、心の弱さが表れていると考えても間違いではないと思います。
しかし、意識のレベルが高い人、修行が進んでいる人は自分の幸せよりも他人の幸せを祈ります。
または、世界平和や社会が安泰であることを祈ります。
さらに、その実現のために自分自身を神の御手として使ってくれる様祈るのです。
神の御手とは一体どのようなことでしょうか?
それは、自分自身を神の意思の反映として、困っている人や苦しんでいる人を助けること、または社会や国家の発展に使って貰うのです。
その代表的な人がマザーテレサです。
神の御手として自身を使って貰うためには、よく「神にサレンダー(降伏)する」と言う表現をします。
人間の価値観と神の価値観は大きく異なっています。
人間の価値観はエゴ(我欲)に基づいていることが多いのです。
人を助けるという目的を掲げながら名誉欲とか金銭欲の方が動機の前面に現れている人もいます。
それでは、神は納得しませんし、神の力を十分得ることはできません。
「神にサレンダーする」ということは、自分がしたくないことでもしなければならないという場面もあります。
例えば、歴史上神懸かりになった人は壮絶な苦労をしています。
天理教を創始した中山みきの場合、天理王命(てんりおうのみこと)が懸かり、中山みきのご主人に対して『みきを「神のやしろ」として貰い受ける、承諾すれば世の人々を救済する役目をさせるが、拒めば中山家を滅ぼすぞ』と言ったのです。
断腸の思いでご主人がそれを承諾すると、次は「家財・財産を近隣の貧民に惜しみなく与えよ」という指示を受け、中山家は極貧の暮らしをすることになりました。

出口王仁三郎(出典:wikipedia)
また、宗教大本の創始者の一人である、出口王仁三郎は神の指示で国家弾圧を受ける様に挑発的行動を続け、第一次・第二次大本事件と言われる大規模な宗教弾圧を招きました。
それはとても深い深い意味があったのですが、その結果出口王仁三郎はじめ幹部信者は治安維持法違反・不敬罪で連行された上拷問を受けることになりました。
起訴61人中、16人が死亡したというその苛酷な拷問では出口王仁三郎自身は耐え抜きましたが、息子の出口日出麿は拷問により廃人同然となりました。
後継者として大事にしていた息子が拷問で精神を破壊されてしまうのも出口王仁三郎は耐えなければならなかったのです。
それは想像を絶する試練と思います。
例としてこの2名を挙げましたが、この2名だけではありません。
イエス・キリストもしかり、また私の修行仲間もそれぞれ大変な経験をしています。
神の御手として衆生救済を行う生き方というのは大変なもので、心が弱い人間がなし得ることではありません。
自分がしたくないことを果敢にやっていかなければならないこともあるでしょう。
辛い修行を忍んでやっていかなければならないこともあるでしょう。
それは鉄の様な強い意思と神への完璧なる信仰心を持っていなければできないものです。
それでも、神への信仰を持ちますか?衆生救済をしていきますか?と神に試されているということなのです。
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