山の行より里の行

皆さん、こんにちは。
「山の行より里の行」という言葉があります。
今回はこの言葉の意味から、私たちの生き方を考えてみたいと思います。
山というのは、文字通り山という意味です。
古来、修行と言えば深山幽谷に入り、心身を浄め鍛えるというのが通例です。
山は、特に霊山は、エネルギーが高く、そこで瞑想などをすると意識の変容が起こりやすくなります。
その様な場所には、寺社仏閣が建っていることもあります。
気(エネルギー)が高いため、今でもやはり山で修行をしている人はいます。
私も月に1回、木曜日~日曜日まで、臨時休業をいただいて人里から離れた山中で神仏や自分自身と向き合う行をしています。
一方、里というのは、今でいう街の意味です。
街は、多くの人が生活をしています。
学校や会社などの様々な共同体に帰属し、その中で共通目的の遂行のために人々が切磋琢磨しています。
ピンからキリまで色々な人が混在する世界であり、霊性の高い人もいれば、物欲にまみれた俗物もいます。
山に入って一定期間過ごせば、浄化が進み、気(エネルギー)が満ちてパワーを増強できます。
感覚は研ぎ澄まされ、霊能や超感覚に磨きがかかってきます。
里の人間(じんかん)にいると、色々な気(エネルギー)を受けて自身のエネルギー体(オーラ)が汚れてきますが、山でそれをきれいさっぱり浄化すれば、感度も高まり、神仏をより感じやすくなります。
また、都会とは違う厳しい寒暑風雪の環境にいると、精神も鍛えられます。
山の修行にはこのような利点があります。
お気楽にできる修行ではないため、山で修行をしているというと、厳しい修行をしているという見方をされることもあります。
この様に、確かに山の修行は得るものも多いし、大いに鍛えられるところもあります。
しかし、それでいて「山の行より里の行」と言われるのはなぜでしょうか?
一つには、山で修行をして鍛え上げられた心身や法力を持って里に帰り、そこで困っている人・弱っている人のために尽力しなければならないという考えがあります。
凄い力を持っていても、それを人のために役立てることをしなければ宝の持ち腐れになります。(私の師匠の様に、里で活動する人を育成する役目の人も例外的に存在します)
だから、山で修行をした後は、里に帰ってその力を活かしてこそ初めて修行が活きる意味で、それが「山の行より里の行」という訳です。
山で修行をしている様な人達は、往々にして自己顕示欲も希薄ですので、目立つこともありません。
里で縁ある人だけが知り合える隠れた存在となっています。
また、もう一つには、山の行の厳しさもさることながら、里の行の厳しさは尚一層であるという考えがあります。
山の行は、確かに厳しいところもありますが、基本的に自分、または自分と神仏との関係の中で完結しています。
しかし、人間として本当に鍛えられるには、たくさんの人との関わりの中で揉まれることです。
世間には色々な人がいますから、自分がどうしても好きになれない、非常にストレスを感じる人もいるわけです。
そうした人との関わりの中で、自身の中に想起する様々な醜い思いと否応(いやおう)なく直面することになります。
思いが叶わず我慢しなければならないことがあります。
摩擦があって、悪口を言われることがあります。
プライドを傷つけられたり、馬鹿にされたりすることがあります。
好きな人から嫌われることがあります。
愛する人との別れがあります。
理不尽な思いをすることがあります。
わかってほしいのにわかってもらえないことがあります。
暴力を受けることもあります。
経済的に困窮し、ひもじい思いをすることがあります。
先の見えない病気になって絶望の中で生きなければならないことがあります。
大切な人が病気になって、我事の様に苦しむことがあります。
この様に、苦しみ・痛い思いをしたり、傷つけられてボロボロになったりして、精神がやっとのことで保っているという限界ギリギリの思いをすることも時にはあるでしょう。
怒りや嫉妬、哀しみ、不安・心配・・・ネガティブな感情を嫌という程体験し、やがて人はそれを乗り越えていきます。
その様な感情にどっぷり浸かっている時は、まるで嵐の中にいるというか、先の見えないトンネルに入って暗中模索しているかのようで、煩悶し非常に苦しみます。
苦しんで苦しんで、「どうして、一体・・・」と涙ながらに天を仰ぐこともあるでしょう。
その様な感情を味わうことになるのは、相手がいてこそということになるのです。
しかし、突き詰めて考えれば、本質的には自分自身の問題であり、相手に責任転嫁するのはスピリチュアル的な見方をすればお門違いと言えます。
自分自身の中に、その問題が起こる種があるから、苦しみが起こって来るのです。
人との関わりの中で、学ぶことはとても深遠です。
一個一個乗り越えていくことで成長し、やがて石の角が取れて丸くなるかの様に磨かれ、高尚な人格が形成されていきます。
これは一種の過酷な修行でしょう。
誰もがやっている厳しい厳しい修行です。
人がいてこそできる「里の行」。
これこそが、「山の行より里の行」と言われる所以(ゆえん)です。
私も、定期的に山で修行する身ですが、もっとどっぷり山で修行をしたいという思いを抱くことが時々あります。
昔、過去世を見られる人から、「もうあなたはさんざん山の行をしてきたから、今生は里の行ですね」ということを言われたことを思い出しました。
ですので、余り山の修行に憧れを持つことなく、今いる里でできることを淡々とやっていけばいいのだと思っています。
「あれができたらいいなぁ」と隣の芝が青く見えることもあるかもしれません。
しかし、人それぞれ修行の場や内容は違うはずです。
現実逃避の様に、他所を夢見ないで、今の場で精一杯生き切ることが、何よりの修行と言えるでしょう。
置かれた場所で、花が咲く様努めていけばいいのです。
やがて、そこでの修行の課程がクリアできれば、違うステージが用意されています。
私は気功治療という仕事を自分の修行と思い、今日も朝早くから励んでいます。
お互い一歩一歩成長をしていきましょう。
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