お盆・送り火の時に誘われたところは…
category: 歴史・大和魂

皆さん、こんにちは。
今年もお盆の期間が終わりました。
お盆休みを数日もらって心身をリフレッシュされた方も多いのではないでしょうか?
私は例年1日だけ休業日を頂き、実家の名古屋に帰り墓参りをする様にしています。
しかし、今年はなぜか行く気がせず、15日(土)の夜 仕事を終えてから家内の実家である長野県佐久市へ行きました。
佐久市は軽井沢の隣、標高は軽井沢より低いですが、風光明媚で夏は涼しく私はいつも地上の楽園ではないかと思うのです。
16日(日)は陽気もよく、息子と近くに散歩に行くことにしました。
近くには洞源湖という沼があり、昔からよく散歩に行くコースです。
息子に誘われ洞源湖までのんびり歩いていきました。
車も歩行者もなく、古びたバス停を見ては「1日2本しかバスが来ないんだね。」と言ったりしていました。
いつもは洞源湖の辺りでUターンして帰るところですが、洞源湖の前にお寺があり息子がそこに行きたいと言い始めました。
「え~、行くのかぁ」
と、言いながらまぁいいかと思い、息子について行ったのでした。


そのお寺は貞祥寺という曹洞宗の寺院でした。
余り人気もない感じです。
2人で中に入っていくと、石の階段を登り切ったところに山門や伽藍があり、また地面一面が苔に覆われていてとても風情がありました。

敷地の奥には三重塔もありました。
蝉しぐれや鳥の鳴き声だけがする静寂な寺院で、「ここで修行をできたらさぞ幸せだろうなぁ。」と思ったものです。
一通り見て回ったかなと思った時に、ちょっと上の方に行っていない一画があることに気付きました。
遠くからはよく見えませんでしたが、「なんだろう?あれは?」と近づいていくと、
「まさかぁ!!」
と、愕然としました。
何とそこには回天の慰霊碑があったのです。


回天・・・今では知らない人の方が多いかもしれません。
回天とは大東亜戦争末期に開発された特攻兵器です。
特攻というと、飛行機での特攻を思い浮かべることでしょうが、回天は別名・人間魚雷と言われるもので、魚雷だか小型潜水艦だかわからない形態で、先端に爆薬を搭載してあり、兵士が操縦し敵艦に体当たりするものです。

この回天は貞祥寺のものではありません (出典 : 回天)
その兵器の形状は、魚雷を前後に切り離しその間に操縦する装置を付けたものと想像すると近いでしょう。
全長は14.75m、重量8.3t、直径はわずか1m、中に入ったら身動きができない狭さです。
最高速力は30ノット(時速56㎞)、結構早いでしょうか。
積載爆薬重量は1.55tで、通常の魚雷の3倍程度、巨大戦艦も一撃で撃沈させる力がありました。
耐圧深度は80m。これは余り深く潜れないということです。
考えるだけで酷い兵器ですが、その当時太平洋での戦局は悪化の一途を辿っており、このままではまずいと、起死回生の兵器を開発したのです。
回天慰霊碑の横の碑文にはこの様に書いてありました。
(読みづらいところもあり一部間違いもあるかもしれません)

昭和十九年太平洋戦争年を重ねて苛烈となり、戦勢ようやく我に利あらざる時 憂国の至情に燃えし黒木博司少佐、仁科関夫少佐は第一特別基地隊に在りて前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷を完成もって劣勢の挽回を計らんと、「回天」と命名 徳山湾大津島に基地を定め日夜一人一艦必殺の戦法 操縦訓練に励む。
黒木少佐は訓練に殉死したるも同年十一月回天特別攻撃隊菊水隊の先陣に立ちし仁科少佐以下敵前進基地ウルシー・パラオ・コッスル水道・ホーランジア・グアム・アプラ港に また硫黄島 沖縄付近海域 中西部太平洋上に大津島 光 平生大神の各基地より出撃し敵艦に体当たり攻撃を敢行せり。
戦遂に利あらず昭和二十年八月兵を収むるまで戦没並びに殉職搭乗員の英霊百五十余柱 帰らざる潜水艦七隻その乗員八百十余柱を数う散華せし勇魂を仰慕し回天の偉業を後世に伝えんと創始者仁科少佐の出身佐久に永遠の世界平和を念じつつ長野県出身戦没並びに殉職搭乗員仁科関夫少佐 北村十二郎少尉 中島健太郎大尉 宮澤一信中尉の霊安からんことを祈念し戦友相寄り「回天之碑」これを建つ。
なんと佐久は回天の共同発案者である仁科少佐の出身地だったのです。
黒木少佐と仁科少佐は幾度も人間魚雷兵器の実現を提案しましたが、脱出装置もない必死の兵器開発を上層部は了解することはありませんでした。
しかし、両名はついに血書嘆願しこれを認めさせるに至り、回天が実現することになったのです。
この回天の最大の問題は操縦が困難を極めたということです。
潜水艦であるにも関わらずソナーもありませんので、要は目隠しされて暗闇の中を突っ走る様なものです。
操縦は各ゲージと海図縦舵機の針を頼りに行います。
つまり海図を見ながら計算しつつ操縦するのです。
通信機能はなく、一度切り離されると連絡手段はなくなりました。
一旦出撃すると、回天を降りることはできずまさに鉄の棺桶の様相を呈していました。
敵艦に近づいているのかとわからなくなれば、水面に浮上し潜望鏡を上げ周囲を確認します。
しかし、初めて行く海域で方位の確認、目標の探査は困難を極めたと思われます。
ましてや日暮れになれば何も見えません。
海面に近づけば、敵に発見される危険性も上がります。
うまく敵艦に突っ込めれば成果も大きかったでしょうが、目標を見つけられず無念のまま海中に没した搭乗員も多かったのではないでしょうか。
開発者の一人黒木博司少佐は、大津島で訓練中に海底に突っ込んでしまう事故に会い命を落とされました。
救助には時間を要し、10時間後に引き上げた時には黒木少佐は窒息死していました。
酸素が枯渇し暑さと苦しみで薄れゆく意識の中、黒木少佐が泰然と残した遺書は今も残されています。
もう一人の開発者である仁科少佐もウルシー停泊中の敵艦の攻撃に参加しました。
七生報国の鉢巻きを巻いて決死の覚悟の出撃でした。
七生報国とは、「七度人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」との意味で、1336年楠木正成が足利尊氏に敗れ死ぬ間際に誓った言葉であります。
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回天の攻撃を受けた米油漕艦「ミシシネワ」(出典 : wikipedia )
仁科少佐は米油漕艦「ミシシネワ」へ特攻し戦死されたと言われています。
「ミシシネワ」は当時の最新鋭大型タンカーで、アメリカ側の戦死者は63名ということです。
黒木少佐は22歳、仁科少佐は21歳と、お二人とも人生これからという若さで散華したのでした。
回天による戦没者は145人で、平均年齢21歳という若さです。
戦後の日本は多くの若者たちの命を礎にして成っていることを忘れてはならないと思います。
回天について詳しいことは、佐藤秀峰さんの漫画「特攻の島」がお勧めです。
私も7巻まで買って読みました。
若者たちは親や家族、恋人、国を守るため死を恐れてはいませんでした。
しかし、犬死ではなく自分の命を懸けるだけの大義がほしいと苦悩する様子がリアルに描かれています。
その日、回天の慰霊碑の前でお祈りをしていると、身体が重くなってきました。
「あっ、誰か来たな」と思い、「戦後70年が経つが未だ成仏していない魂があるのだ」と切ない気持ちになりました。
多分、お盆で帰って来た魂ではないと感じました。
私は自分の身体に霊が掛かると重苦しくなってきます。
霊の苦しさが伝わってくることもよくあります。
私の場合は霊障について割と自覚していると思いますが、一般の方は霊障がわからないため体調不良や自律神経の問題と認識しがちです。
しばらくの間苦しい中でお祈りを続けました。
どれくらいの時間が経ったでしょうか、ふと
「平和な日本を実現してください。」
というメッセージが伝わってきたかと思うと、急に身体が軽くなりました。
おそらく、その時に上がってくれたのだと思います。
お盆の最終日・送り火をする日(終戦記念日の翌日でもある)にここに来たのは偶然ではないと私は思いました。
いつもは名古屋に行くのに、戦後70年の節目の年にここに来たのです。
今まで幾度も歩いた散歩道でありながら、立ち寄ったことのなかったこの慰霊碑に来たのは息子の誘いということもありますが、その背後で英霊のお誘いがあったのでしょう。
私の祈りが英霊たちの救いになっていればと思わずにはいられません。
日本だけではなく、世界の平和のための礎になってくれた英霊たちに心から感謝の意を捧げたいと思います。
いつもご愛読頂きありがとうございます。
読者の皆様の健康と幸せを今日も祈念致します。
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